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ひかげの花
ひかげのはな
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「雨瀟瀟・雪解 他七篇」 岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年10月16日
初出「中央公論」1934(昭和9)年8月
入力者入江幹夫
校正者酒井裕二
公開 / 更新2018-01-18 / 2017-12-26
長さの目安約 97 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 二人の借りている二階の硝子窓の外はこの家の物干場になっている。その日もやがて正午ちかくであろう。どこからともなく鰯を焼く匂がして物干の上にはさっきから同じ二階の表座敷を借りている女が寐衣の裾をかかげて頻に物を干している影が磨硝子の面に動いている。
「ちょいと、今日は晦日だったわね。後であんた郵便局まで行ってきてくれない。」とまだ夜具の中で新聞を見ている男の方を見返ったのは年のころ三十も大分越したと見える女で、細帯もしめず洗いざらしの浴衣の前も引きはだけたまま、鏡台の前に立膝して寝乱れた髪を束ねている。
「うむ。行って来よう。火種はあるか。この二、三日大分寒くなって来たな。」と男はまだ寐たまま起きようともしない。
「今年も来月一月だもの。」と女は片手に髪を押え、片手に陶器の丸火鉢を引寄せる。その上にはアルミの薬鑵がかけてある。
「うむ。月日のたつのは全く早いな。来年はおれもいよいよ厄年だぜ。」
「そう。全く憂欝になるわよ。男は四十からが盛りだからいいけれど、女はもう上ったりだわ。」と何のはずみだか肩を張って大きな息をしたのが、どうやら男には溜息をついたように思われた。
「誰だって毎年年はとるにきまっているからな。」と男は俄に申訳らしく、「まアいいやな、こうして暮して行けれァ何も愚痴を言う事はない。別に大した望みがあるじゃなし……なアお千代、おれは全くこうして暮していられれば結構だと思っているんだ。」
「それはそうよ。だけどこうして暮して行けるのも永いことはないわよ。もう……。」
「もう。どうして。」
「どうしてッて。わたしとあんたとはいくらも年がちがわないんだもの。わたしの方じゃ稼ぐつもりでもお客の方が……。」と言いながら女は物干台の人影に心づいて急に声をひそめる。男は夜具から這出して、
「そうなれば、おれも男だ。お前にばかり寄ッかかっていやしない。お前はおれの事を意気地なしだ――それァあんまり意気地のある方でもないから何と思われても仕様がないが、おれだって行末の事を考えずにこうしてぶらぶらしているんじゃない。年を取ってから先の事はいつでも考えている。だから、お前の稼ぎは今までだって一厘一銭だって無駄遣いをした事はないだろう。それァお前もよく知っているはずだ。なアお千代。」
 囁くような小声ながらも一語一語念を押すように力を入れ、ぴったり後から寄添っていつか手をも握りながら、「お前、もうおれがいやになったのか。」
「そんな事……だしぬけに何を言うのさ。」とびっくりした調子で女は握り合った男の手をそのまま、乳房の上に押当てた。
 裏口の引戸を開ける音とともに物干台に出ていた女がどしんと板の間へ降りる物音。つづいて正午のサイレンが鳴り出す。女は思直したように坐り直って、
「もうそんな話、よしましょう。ねえ、あんた。じゃア後で郵便局へ行って来て下さいねえ。」…

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