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新島先生を憶う
にいじませんせいをおもう |
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作品ID | 58082 |
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副題 | 二十回忌に際して にじっかいきにさいして |
著者 | 大隈 重信 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「大隈重信演説談話集」 岩波文庫、岩波書店 2016(平成28)年3月16日 |
初出 | 「實業之日本 第拾參卷第參號」實業之日本社、1910(明治43)年2月1日 |
入力者 | フクポー |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2018-01-23 / 2017-12-26 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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我輩の知れる二大教育家
この春は京都同志社の創立者たりし故新島襄君の二十回忌に当るのである。我輩は君と相知ること深かりしにはあらねどまた因縁浅しということを得ない。況んや我輩もこの三十年間学校教育の事では苦労をしているのであるから、君の如き立派な人格と一定の主義を有する教育家が早世した事を憶い出すと実に残念で堪らぬ。
明治年間に功労ありし教育家は少なくない。しかし我輩の最も推服しているのは福沢先生と新島先生の二人である。福沢氏は大なる常識を備えてもっぱら西洋の物質的智識の教育を施し独立自尊の倫理を説き且つ実行した人、また新島氏は基督教主義の精神的教育を施した人で、遣り方は[#「遣り方は」は底本では「遺り方は」]よほど異っていたけれども、両者共に独立不羈にして天下の徳望を博したる点に於ては他に比ぶ者がない。
我輩と新島氏との関係
福沢氏とは昔からの知合いで頗る懇意であったが、新島氏とは久しく会う機会もなく、初めて会ったのは明治十五年であった。この時は我輩も既に政府を退いて、学問の独立を図るという目的から東京専門学校(早稲田大学前身)を設立した頃で、新島君の初めて宅へ来られたのはあたかもこの建築中の頃であった。
この時はただ普通の会談で君は同志社の事を話され、我輩は学問独立の必要を説き、共に民間教育のために尽力しようという位の話であった。
我輩が人と交際を結ぶのは、いつも何か事ある時にその事に関係してそれから知合いになった場合が多い。新島君ともやはりそうで十五年学校建築中に初めて会い、後間もなく建築が終った頃再び訪ねて来られたのでまた会ったが、爾来別に交際を進めるという事もなく数年を過ぎ、明治二十一年に至って初めて我輩も君の事業に対して及ばずながら一臂の力を添える様な関係になった。
我が国最初の私立大学計画者
君が同志社を京都に創立されたのはたしか明治八年頃と聞いているが、君は非常なる苦心を以て漸次これを発展せしめ、ついにこれを基礎として私立大学を設立するの計画を立てて、明治二十年頃よりその準備運動に着手せられた様である。
元来同志社の創立は新島君の非常なる決心とその決心に対する米国人の同情とによりて出来上がったのであるから、学校の資金も大部分は米国人の自由寄付並びに米国伝道会社の寄付に依るものであった。これは同校の主義が基督教の徳育を施すというのであったからである。
かく基督教を以て徳育の基礎とせられたのであるが、その教育の理想とせられたところはいわゆる「人はパンのみにて活くるものにあらず」、真に生命あり、活気あり、真理を愛し、自由を愛し、徳義を重んじ、主義を重んじ、なおその上に日本国のために身命を擲って働くところの真の愛国者を養成したいというのであったらしい。
我が子はなるべく自分の乳で育てるのが至当である。いつまでも米国人の同情のみに…