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我輩の智識吸収法
わがはいのちしききゅうしゅうほう |
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作品ID | 58086 |
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著者 | 大隈 重信 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「大隈重信演説談話集」 岩波文庫、岩波書店 2016(平成28)年3月16日 |
初出 | 「成功 第十七巻第三号」1909(明治42)年11月 |
入力者 | フクポー |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2018-03-11 / 2018-02-25 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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大隈は耳学問だろうと言うものがある
日々幾十人の人に面接しているから、大隈は耳学問だろうというものがあるようだ。実際耳学問であるか、そうでないかということは、まだ確と考えてみたことはない。また考えてみる必要もなかったが、とかく耳の方で聞いたのは、碌な学問になっていないことは事実だ。
一体学問というものは、目でも耳でもいずれでも出来るはずのものに相違ない。学生は主として耳で学問をしている。彼の教場に於て講師の講義を聞くというのは、これこそ真の耳学問である。そこへ行くと我輩は、耳学問の出来ぬ方の性質だと思う。というのは、我輩は元来剛情で短気で、なかなか人の話などをうんうんと傾聴することをせぬ。どうも人の話を聴いているのは間だらしくて堪らぬ。それであるから対手が誰でもかまわぬ、御先にご免をして、此方からさっさと独りで話し出すのである。
我輩は種々な方面の連中に会う機会が多い。まず日に随分種々な連中が見える。それだから耳学問をやろうと思えばそれは出来そうにもあるが、ところが今言った通り我輩が人の話を聴かぬから耳からの学問はあまりない。しかし我輩は全く耳を使っておらぬというのではないが、ただ使うのは口ばかりだ。それでは耳の学問でもなければ、また目の学問でもなく、口の学問になってしまう。まずこんな風であるから、我輩は考えてみた訳でもないが、耳からはあまり学問していまいと思う。
しかし我輩は耳はあまり使っておらぬ
それで、海外からの新帰朝者の土産話は、大いに耳学問になるだろうという人がある。それは此方で注意して聴いていたならあるいは耳学問になるかも知れないが、我輩が土産話も聴きはしない。土産話をしに来ると此方から逆に海外の話を聴かしてやる。我輩の談が果して〔当って〕いるかどうかは知らぬが、構うことはない。洋行帰りの先生に海外の話を聴かしてやる。こんな調子で御土産はとんと頂戴はせぬ。頂戴しないどころではない、御土産に熨斗をつけて返してやるのだ。
ところで若い時分はどうであったかというに、若い時分から我輩は剛情張りで、人の話などは聴かなかったのである。なんでも二十三、四の頃からは独りで先生気取りで盛んに講釈を聴かせて今日まで押し通して来たのだから、口は随分使っている。しかし耳はあまり使っておらぬ。
勿論暇さえあれば我輩は書物を読む
それなら書物は読んでおるかと、勿論暇さえあれば書物を読む。暇さえあればその間酒でも飲んで騒ぐというようなことはしない。それよりか読書をする。また我輩は園芸に趣味をもっているから、暇があればまず庭園を歩き廻って見る。而してなお暇が得らるれば、今度は読書をするという風にしている。実は智識をうまく活用して行くのである。
一体我輩のところへはあまり怜悧なものは来ぬ。それだから我輩が独りで話してやるのだ。こういう風であるからなんで人から智識…