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第四階級の文学
だいよんかいきゅうのぶんがく
作品ID58092
著者中野 秀人
文字遣い新字新仮名
底本 「中野秀人作品集」 福岡市文学館
2015年(平成27)年3月25日
初出「文章世界 15巻9号」1920(大正9)年9月
入力者富田晶子
校正者日野ととり
公開 / 更新2017-01-01 / 2017-01-01
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 文学も効用漸減法に支配されるものである。何と云っても文学を哺むに最も適した土地は貴族社会であった。寝て居て食える社会であった。閑人の社会に文学は生れる。けれども掘り返され掘り返されする内に、此の土地に投ぜられた資本及び労働に対する報酬は減って来た。播かれた種が皆な烏に攫って行かれたり、唐茄子に糸瓜が実ったりして来た。そこで勇敢な人々は第三階級の土地に出掛けて行った。そこでは見慣れぬ珍らしい果実や野菜やらが出来た。今までの沈滞した一律的な文学は、明るい伸々とした世界に出て来た。けれども新らしい文学も旧くならずには居ない。真紅に咲き爛れた椿の花がぼったりと崩れ落ちる様に、咲き遅れたダリヤががっくり前につんのめる様に、むれた風通しの悪い文学はしっかりと根を張った意地の悪い、けれども「力」に満ち満ちた文学に変って来た。第四階級の文学に変って来た。が新しい土地を開拓するには忍耐と勇気とが要る。只上面を眺めて雑草ばかり繁って居るので早くも失望してはならない。無知な無学なプロレタリヤにどんな文学が生れようか、まして日本の労働者と来たら、物質的で飲食と色情と安価な人生観とで固まって居るのだから、堪らないと云う人は、人間の心の小さいいきさつを知り得ない人である。微動する自然の耳語を気付かない人である。そしてまた第四階級の文学は労働者自身によって企てられるものだとは限らない。寧ろ文学が労働服を着るところに意義を見る。同感或は情緒、これこそ一切の文学の核心ではないか。吾々は丹念に仕立上げる花造りの様に気永に待たなければならない。と云って私は決して文学が階級的意識によって成長するものだなどと主張するのではない。そして又此の新文学が、過去一切の文学に卓越したものだなどと思うものではない。只此の新らしい処女地に生え出でんとする文学に対して、多大の希望と喜びを禁じ得ない者である。
 文学は全人類の精神の糧である。そして文学はそれ自身に於て正義と自由との味方である。解放が文学の本質である。さればその美的観照が虐げられたる第四階級に行こうとするのは当然の事であろう。文学が労働と苦難とを愛する様になったのは何が故か? 文学は常に虐げられたる者の内に巣食って解放の口火を付ける。文芸復興も仏蘭西革命も露西亜革命も皆な文学を背景として演ぜられた。人類の歴史に永遠に波打つデモクラシーの力も、不平等を覆えそうとする文学の呼号によって動かされた。然し文学は方便ではない。だから自由平等の社会が生れた時に文学は益々光るであろう。けれども果して自由平等の社会が実現され得るものであろうか。自我と社会との合致は如何なる意味に於て如何なる形式に於てなさるべきか? 之等は社会政策や哲学の論議にまかせよう。吾々が現実に文学を考えるに当っての問題ではない。文学は感情そのものである。文学は某々主義と同居してはならない。文学…

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