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雑草雑語
ざっそうざつご |
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作品ID | 58094 |
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著者 | 河井 寛次郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆1 花」 作品社 1983(昭和58)年2月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2017-11-18 / 2017-10-25 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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罌粟の花は毒薬の原料にされてから畑から追払はれてしまつた。あんな素晴らしい花や実を取られたのは子供達には何んといふ不幸なことなのだらう。毒薬なんかにはしないから畑へ返して貰ひたい。
柿は驚くべき誠実な彫刻家だ。自分を挙げて丹念に刻つた同じ花を惜げもなく地べたへ一面にばらまいてしまふ。こんな仇花にさへ一様に精魂を尽してゐる柿。
矢車草は子女の着物の柄に使はれて子供達をも美に染めた。着物は洗はれて柄は消えたが子供達の畑のこの花は今もなほ美事に咲いてゐる。
南瓜の花なんか誰も賞美しない。実だけに気を取られて、花には気がつかないらしいかもわからない。然し今ではなくなつた縮緬南瓜や瓢箪南瓜の委曲をつくした皺の美は、意識はしてゐなかつたが見逃がしてはゐなかつたに相違ない。夫れは、この頃の石の流行は、こんな南瓜の皺を知らずに食べてゐたわけであつたかもわからない。
山百合は畑へ植ゑかへるとあの素晴らしい匂を失つてしまふ。生まれ故郷の草山を離れるのがいやでまたいつの日にか帰れるかもしれないと匂だけを形見に残して置いたのかもわからない。
椿の花は驚く程の変種が作られたが、子供達には藪椿しかなかつた頃で、夫れしか知らなかつたのは幸であつた。色々な種類を掛け合せて、これまでにない新種を作るのは面白いことには違ひないが、これは変化の手品にごまかされる面白さで美しさとは無関係である。藪椿の端正な形とあの無雑な深い色――雪の蒲団の下の炬燵の燠――。
烏瓜の花は、誰にも見られない葎藪の中に、心をこめてありつたけの思ひをこらして自分の形をこしらへてゐたが、烏にしか認められなかつたその実と共に、この花も亦ちやほやされるのがいやなのかもわからない。
桐の花は知られてゐる割りに見られていない。あれは平地の雑事を厭うて人知れず高い処で思ふ存分自分を咲かしてゐるのかもわからない。
土着野生の鈴蘭は移植すると枯れてしまふさうだ。郷土を棄るのに死をもつて抗議してゐるのだ。この頃一般に拡がつてゐる外来産などどんな土地にも順応出来る花も素直ではあるが、こんな花は無節操であると言はれても仕方がない。
チユーリツプはその頃未だ渡来してゐなかつた。あれは未だにペンキ塗りのブリキ箱の様な暮しにしか写らない。古く渡来した色々な花や草は年月の仲立で親しみ合つて打ち解け助け合つて彼等は帰化し土着した。然し相変らず、日本の節操を守り続けてゐるのは野草だ。人にいたはられた草花はどうしてかうも弱くなつてしまうのだらう。
コスモスは子供達の物心のついた頃には既に土着して農家の背戸や畑の隅に自分の居場所をみつけてゐた。
仏の座と云ふのはどんな姿をした草なのか自分も坐つてみ度い。狐の剃刀とは如何にもよく切れさうな草だ。萱草の葉はさしずめ銘刀正宗かもわからない。
どれが菖蒲か、どれが杜若であるのか、子供達には…