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舞姫
まいひめ
作品ID58126
著者森 鴎外
文字遣い新字新仮名
底本 「舞姫」 集英社文庫、集英社
1991(平成3)年3月25日
初出「國民之友第六拾九號」民友社、1890(明治23)年1月3日
入力者高瀬竜一
校正者岡村和彦
公開 / 更新2021-07-09 / 2021-06-28
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜ごとにここに集い来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。五年前の事なりしが、平生の望み足りて、洋行の官命をこうむり、このセイゴンの港まで来しころは、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく、筆に任せて書きしるしつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけん、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもえば、穉き思想、身のほど知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗などをさえ珍しげにしるししを、心ある人はいかにか見けん。こたびは途に上りしとき、日記ものせんとて買いし冊子もまだ白紙のままなるは、独逸にて物学びせし間に、一種の「ニル・アドミラリイ」の気象をや養い得たりけん、あらず、これには別に故あり。
 げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなお心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言うも更なり、われとわが心さえ変わりやすきをも悟り得たり。きのうの是はきょうの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せん。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
 ああ、ブリンヂイシイの港を出でてより、はや二十日あまりを経ぬ。世の常ならば生面の客にさえ交わりを結びて、旅の憂さを慰めあうが航海の習いなるに、微恙にことよせて房のうちにのみ籠りて、同行の人々にも物言うことの少なきは、人知らぬ恨みに頭のみ悩ましたればなり。この恨みは初め一抹の雲のごとくわが心をかすめて、瑞西の山色をも見せず、伊太利の古蹟にも心を留めさせず、中ごろは世をいとい、身をはかなみて、腸日ごとに九廻すともいうべき惨痛をわれに負わせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響きのごとく、限りなき懐旧の情を喚び起こして、幾度となくわが心を苦しむ。ああ、いかにしてかこの恨みを銷せん。もし外の恨みなりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地すがすがしくもなりなん。これのみはあまりに深くわが心に彫りつけられたればさはあらじと思えど、今宵はあたりに人もなし、房奴の来て電気線の鍵をひねるにはなおほどもあるべければ、いで、その概略を文に綴りてみん。
 余は幼きころより厳しき庭の訓えを受けし甲斐に、父をば早く喪いつれど、学問の荒み衰うることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でて予備黌に通いしときも、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎という名はいつも一級の首にしるされたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりそのころまでにまたなき名誉なりと人にも言われ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼…

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