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かなしみ
かなしみ
作品ID58133
著者高見 順
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆99 哀」 作品社
1991(平成3)年1月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2017-08-17 / 2017-07-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 赤羽の方へ話をしに行つた日は白つぽい春の埃が中空に舞ひ漂つてゐる日であつたが、その帰りに省線電車の長い席のいちばん端に私が腰掛けて向うの窓のそとのチカチカ光る空気にぼんやり眼をやつてゐるといふと、上中里か田端だつたかで、幼な子を背負つたひとりの若い女が入つてきて手には更に滅法ふくらんだ風呂敷をさげてをつた。そこで席を譲つた私であつたが、このごろ幼な子となるとこの私としたことが、きまつておのが細頸を捩ぢ曲げたり或は長い頸をば一層のばしたりしてまでその幼な子の顔をのぞいてさうしてそのあどけなさをば、マア言つてみりや蜂が騒々しく花の蜜を盗むみたいになんとなく心に吸ひ取り集めないではゐられないのであつたから、そのときもその幼な子に遽しく眼を向けたことは言ふまでも無いのだ。どうやら眼が見え出してからやつと一二月位にしかならないと察せられるその子は、眼と眼とのあひだのまだ隆起のはつきりしない鼻の上ンところに、インキのやうな鮮やかな色合ひの青筋を見せてゐて、そのせゐもあるんだらうが、総じて脾弱な感じで顔色もこつちの主観からだけでなく病弱の蒼さと見られ、さういふ子にはなほのこと親ならぬ私ながらいとしさが唆られるのである。ところがその親の若い女なんだが、これはまたどうして骨太のおつとやそつとでは死にさうもない体格の牛みたいなやうな女で、そしてさういふ女に有り勝ちの眼暈を催させるやうな色彩と柄のそれにペカペカと安つぽく光るところの着物を着てゐる。その背中で小さな頼りない幼な子はキョトンとした青つぽい眼をあらぬ方に放つてゐたが、するうちに何を見つけたか、弱さうな子でもやはりくびれは出来てゐるその頸を精一杯うしろに曲げて、それは全くもやしの茎がポキント儚く折れるやうに今にも折れはしないかとハラハラする位に無理にのけぞらせて、一心に何かを瞠め出したものだ。何か横の上の方にあるものに幼な子は大変な興味を惹かれて了つたらしいのだ。瞬きもせず瞠めてゐるのだつた、すぐその無理な恰好が苦しくなるのだらう、首を前に戻すのだが、その戻すのが戻すといつた式のものでなくガクッと首を前に倒す、いいえ、ぶつつけぶつ倒すのだ。さうして鼻をペチャンコに潰したまま母親の襟に顔を埋め、しばらくはさうしてフーフーと息をついてゐる。この幼な子にとつて仰向いて瞠めるのはそれこそ大変な労苦であることをそれはありありと語つてゐた。とまた首を持ちあげ頸を折るみたいにして仰向くのであつた。さうして再びガクッとやる。はて何が一体そんなにまで幼な子の心を強く捕へたのかと私は心穏かでなく幼な子の視線を辿るといふと、席の横にひとりの背の低い青年が立つてゐてその男の顔を瞠めてゐることが分つた。さりながらその顔は至つてありきたりの雑作であつて別に不思議な顔といふのではなかつた。けれど如何にも不思議さうに幼な子は見入つてゐるといふことを青…

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