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The Affair of Two Watches
ジ アフェア オブ トゥー ウォッチイズ
作品ID58153
著者谷崎 潤一郎
文字遣い新字新仮名
底本 「潤一郎ラビリンスⅢ――自画像」 中公文庫、中央公論新社
1998(平成10)年7月18日
初出「新思潮」1910(明治43)年10月号
入力者黒潮
校正者まりお
公開 / 更新2020-07-30 / 2020-06-30
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

何でも十二月の末の、とある夕暮の事だった。
晴れるとも曇るとも思案の付かない空が下界を蔽い、本郷一帯の高台を吹き廻る風はヒューヒュー鳴って、大学前の大通りを通る程の物が、カサカサと乾涸らびた微かな音を立てゝ居た。
此の辺の道路は雨が降ると溝泥になる癖に、此の日は堅い冷めたい鉄板の如き地肌を寒風に曝して、其の上へ叩き付けられる砂塵が、鼠花火のように二三町渦を巻いて走った。往来の人は口を噤んで自分自分の足の端を視凝めながら、専念に歩く事へ気を奪われて居た。正門と赤門と二つの口から大学生がぼろ/\出て来て其の中へ交った。其れも小学校や中学校の生徒のように多勢景気よく練って来るのではない。大概は一人ずつ、稀には二三人組み合って、洋服の者は外套の隠嚢に両手を突っ込み、襟に頤を埋めてスタスタ行く。和服の者は懐中へ筆記帳を四五冊無理やりに拈じ込み、右の手の人差指一本だけ袖口からちょいと出して、それへインキ壺を引っ懸けて行く。どれも、これも、暗い顔をして俯向いて歩く所は一角の哲学者めいて居るが、何も文科の生徒ばかりではない。こう云う天気に黄昏の街を歩くと、大概な人の顔は哲学者面になって居る。その哲学者面を砂塵がサーッと吹きつけて通った後では、確かに二三人は消えて失って居るだろう。
杉に原田に私―――今日も亦三人落ち合って正門を出た。例の如く、「金が欲しい、飲みたいなあ」と云う言葉が三人の鼻先に恐ろしい程明瞭にブラ下って居たが、誰もそんな事は噫と一緒に噛み殺し、何食わぬ顔でたわいもない冗談ばかり云い合って居た。其の癖喋りながら銘々相応に達者な神経を働かせて、対手の懐を読んで見たが、念入りに揃いも揃って文なしらしかった。こう云う際に一人でも金を持って居たら外の二人が寄ってたかって、貸したものを取るような勢で奢らせずには措かないのだから、少しでも懐の暖かい奴の顔には一種の恐慌が表れて居なければならない筈なのだ。で、若し飲もうと云い出して誰も金がないとなると猶更悲惨になるから、三人申し合わせたようにジッと我慢をし抜き、成る可く現実隠蔽の悲哀の近所へは近寄らぬようにして、ヤケに笑ったり喋ったりしながら歩いた。けれども其の笑顔すら時々寒風に衝突って哀れにひしゃげた相好に変った。こうなると我々は素晴らしい警句が口をついて出る。そして警句が出れば出る程、忘れる筈の一件が矢鱈無上に込み上げて、いくら振り落そうと藻掻いても始末に悪い事になるのだ。
「あゝッ………」
今迄調子づいてはしゃいで居た原田が、フイと思い出して物欲しそうに嘆息したので、杉と私とはドッと吹き出して了った。
「………飲みたいなあ。お互に血の出るような冗談を云うたって仕様がない。え、杉さん。」
原田は杉と私に限って妙にさん附けにした。
「駄目だよ今日は。観念めるさ。とても抗わぬ事だから、僕は此処を先途と喋り散らして花々しく討死…

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