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奥常念岳の絶巓に立つ記
おくじょうねんだけのぜってんにたつき
作品ID58158
著者小島 烏水
文字遣い新字新仮名
底本 「日本近代随筆選 1出会いの時〔全3冊〕」 岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年4月15日
初出「中學世界 第十卷第七號」博文館、1907(明治40)年6月
入力者岡村和彦
校正者富田晶子
公開 / 更新2019-12-13 / 2019-11-24
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 泊まったのは、二の俣の小舎である。
 頭の上は大空で、否、大空の中に、粗削りの石の塊が挟まれていて、その塊を土台として、蒲鉾形の蓆小舎が出来ている。立てば頭が支える、横になっても、足を楽々延ばせない、万里見透しの大虚空の中で、こんな見すぼらしい小舎を作って、人間はその中に囚われていなければならない、戸外には夜に入ると、深沈たる高山の常、大風が吼けって、瓦落瓦落いう、樺の皮屋根の重量の石が吹き上げられて、一万尺も飛ぶかとおもうのに、小舎の中は空気までが寝入っている。
 自分は今まで、富士山や木曽の御嶽の、頂上の小舎に寝泊まりしたし、或は谷間に近く石の枕で野宿をしたことは幾度もあったが、実は今夜ほど、気味の好く無かったことはない、自分は一人である、この狭い小舎の中、というよりも天外に奔放する一不可思議線のアルプスに、人類としては、自分と導者の善作と只った二人が存在するばかりだ、この二人は生れてから昨日までの長い年月に、互に顔も知らねば名も知らぬ人々である、しかして、二人が呼吸のある屍骸を抱き合わないばかりに横えているところは、高く人寰を絶し、近く天球を磨する雲の表の、一片の固形塊で、槍ヶ岳は背後より、穂高山は足の方より、大天井岳は頭を圧すばかりに、儼然と聳立して、威嚇をしている、僅にその一個を存するとも、猶以て弱きを圧伏するに足るのに、ここに三個を並存している。
 自分が少くとも、この一夜に於て、何よりも、誰よりも、最も親しむべき保護者として頼める善作は、呼吸を窒められたかと疑うばかりに、安々と寝ている、我と彼とは隣り合っているというだけで、自分の心中の恐怖は彼の冷然、化石の如き不可導熱体に波及しないから、二人の間は、全然没交渉である、「無邪気は、強し」とはワーズワース詩中の一句である、彼の恭謙なる、昨夜までは自分に事うること、主従の如くであったが、ここに至って無邪気なる彼は、いつの間にか自分の生命から二番目の赤毛布――山中唯一の防寒具――を奪って、スッポリ頭から冠って快く寝ている、自分も寒いから、痩腕の力限りに毛布の端を引ッ張ってみたが、びくとも動かない、寒気は彼をして、真個の正直者となさざれば止まなかったのである。
 併し流石に敲き起して毛布を奪い返えすまでに、自分も従容と寝てはいられないのである、石で風を抑えた戸帳代りの蓆一枚が、捲くられもしないのに、自分の枕許に、どこよりともなく、影の如く幻の如く、近づくものがある、足音を偸でも「或る物」は「無き物」よりも、隠然たる権威を挟んで予め一種の警告を与えるものである、彼は忍びて先ず、自分たちが生きているのか、死んでいるのかを試んとする如く、つくねんと佇んで覗っている、天地皆死んだとき、宇宙は星の外に皆吹き払われて、空洞になってしまったとき、自分の眼は冴え冴えしくなり、耳まで鞘を払った刀身の如く、鋭利になって、…

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