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人間豹
にんげんひょう
作品ID58170
著者江戸川 乱歩
文字遣い新字新仮名
底本 「屋根裏の散歩者」 角川ホラー文庫、角川書店
1994(平成6)年4月10日
初出「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社、1934(昭和9)年1~2月、5月~1935(昭和10)年5月
入力者入江幹夫
校正者nami
公開 / 更新2019-10-21 / 2019-09-30
長さの目安約 317 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

猫属の舌

 神谷芳雄はまだ大学を出たばかりの会社員であった。しかも父親が重役を勤めている商事会社の調査課員で、これというきまった仕事もない暢気な身の上であったから、飲み覚えた酒の味、その酒を運んでくれる美しい人の魅力が忘れがたくて、つい足しげくその家へ、京橋に近いとある裏通りの、アフロディテというカフェへ通よいつづけたのも、決して無理ではなかった。
 しかし、もし彼がもっと別のカフェを選ぶか、そこのウエートレスと恋をするほども足しげく通よわなかったなら、あのような身の毛もよだつ恐ろしい運命にもてあそばれなくてすんだに違いない。彼がこの物語の主人公、怪物人間豹を知ったのは、実にカフェ・アフロディテにおいてであったのだから。
 ある冬の、殊さら寒い夜ふけのことであった。神谷はまたしてもカフェ・アフロディテの片隅のテーブルに腰をすえて、ウィスキーをチビチビとなめながら、ウエートレスの弘子とさし向かいで、もう三、四時間ほども、意味もない会話を取りかわしていた。
「きょうは変だね、まだ十一時だのに、僕のほかには一人もお客さんがいないじゃないか」
 ふだんから、なんとなく陰気な、客の少ない、その代りにはゆっくりと落ちつきのあるカフェであったが、今晩は殊に、まるで空き家にでも坐っている感じで、薄暗い電燈といい、シーンと静まり返った様子といい、なんだかゾッと怖くなるほどであった。
「魔日っていうんでしょう、きっと。そとは寒いでしょうね。でも、邪魔がなくって、この方がいいわね」
 弘子は恰好のよい唇をニッとひらいて、神谷の好きな八重歯を見せて甘えるように笑った。
 すると、ちょうどその時、入口のボーイが客を迎える声がして、コツコツと靴の音をさせながら、一人の男がはいってきて、一ばん隅っこのシュロの鉢植えの蔭のボックスへ、人眼をさけるように腰をおろした。
 神谷はその男が歩いているあいだに、風采や容貌を見てとることができたが、彼はまっ黒な背広を着た、ひどく痩せ型の、足の長い男で、その顔はトルコ人みたいにドス黒く、頬が痩せて鼻が高く、びっくりするほど大きな、何かの動物を連想させるような両眼が、普通の人よりはずっと鼻柱に近くせまって、ギラギラと光っていた。年配は三十歳ほどに見えた。
 神谷はそれからまたしばらく、弘子と楽しい密語をささやきかわしたが、そのあいだも、シュロの葉蔭の客が、なんとなく気になって仕方がなかった。彼はこんな変てこな感じのする人間を、まだ見たことがなかった。
 弘子も同じ心とみえ、話しながら、絶えずその方をジロジロと見ていたが、とうとう我慢ができなくなったように、ささやき声で訴えた。
「いやだわ、あの人、さいぜんからあたしの顔ばかり見ているのよ。ほら、あの葉蔭から、大きな眼で、あたしの方をじっと見つめているのよ。気味がわるいわ」
 なにげなくその方を見ると、な…

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