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書の深淵
しょのしんえん
著者高村 光太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「高村光太郎全集第五卷」 筑摩書房
1957(昭和32)年12月10日
初出「国立博物館ニュース 第七十七号」1953(昭和28)年10月1日
入力者岡村和彦
校正者nickjaguar
公開 / 更新2020-04-02 / 2020-03-28
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


 書をみるのはたのしい。畫は見飽きることもあるが、書はいくら見てゐてもあきない。又いくどくり返してみてもそのたびに新らしく感ずる。
 出土品の骨や角に彫つた原始形態のものもおもしろく、金石文も、六朝あたりの碑碣の拓本、唐宋の法帖の複製などもすばらしい。わけて肉筆ものを親しく見られる近代大陸や日本のものの興味は盡きない。
 書は一種の抽象藝術でありながら、その背後にある肉體性がつよく、文字の持つ意味と、純粹造型の藝術性とが、複雜にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相關關係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。書を見れば誰でもその書かれた文字の意味を知らうとするが、それと同時に意味などはどうでもよい書のアラベスクの美に心をひかれる。しかもそのアラベスクがただの機械的、圖樣的のものでなくて、それを書いた人間の肉體、ひいてはその精神の力なり、性質なり、高さ低さ清さ卑しさまでが明らかにこちらに傳播してくるのである。一の字をひとつ紙に書かせて、それによつて占ひをする人があるといふことをきいてゐるが、なるほどこれも馴れたら或る程度までその人物の眞相を見ぬくことが出來るかもしれない。
 このやうに書の位置する場が一種特別な、兩棲動物的な、不氣味なものに見えるのは、書の實用性と藝術性との極度の密着から來るのであらうから、文字の意味の分らない異國人にとつてはその藝術性の方だけが純粹に鑑賞出來るわけになる。われわれがイランの文字やチベツトの文字を見れば、むしろ其はすぐれた文樣の一種としか見えない。外國の美術家がわれわれの書を見て、それからつよい抽象藝術的示唆をうけ、自分でも純粹空間的な、書でない書を書いて造型美を創り出すに至つた事實はおもしろい。かういふ純藝術的世界から見れば、書の意味は書の邪魔になるのであつて、意味を解さない外國人の方に分があることになる。われわれは書の意味を忘れることが出來ない。天と書いてあれば、まづスカイとよむが、外國人ならただ四本の線の面白い組み合せ、書かれた線と空白との織り成す比例均衡の美だけを見るだらう。書の制限から解放せられて、自分でも自由自在な抽象美を創り出すことの出來る藝術境に進むことが無理なく行はれるであらう。その點われわれにとつては相當の無理と抵抗とに惱むことになるであらう。
 ところで、書の魅力は實は意味と造型とのこんぐらかりにあり、書の深さはこのヌエのやうな性質の奧から出てくるので、書の東洋的深淵といふ祕境の醍醐味は、外國的抽象美には求められない。わたくしはまだ、一行の平安朝假字書きの美に匹敵する外國人の抽象的線美を見たことがない。



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