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クロイツェル・ソナタ
クロイツェル・ソナタ
副題01 クロイツェル・ソナタ
01 クロイツェル・ソナタ
原題KREITSEROVA SONATA
著者トルストイ レオ
翻訳者米川 正夫
文字遣い新字新仮名
底本 「クロイツェル・ソナタ」 岩波文庫、岩波書店
1928(昭和3)年9月15日
入力者阿部哲也
校正者岡村和彦
公開 / 更新2019-11-25 / 2019-11-01
長さの目安約 217 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

[#ページの左右中央]


『されど我なんじらに告げむ、およそ婦を見て色情を起す者は、心の中すでに姦淫したるなり。』
(マタイ伝第五章二十八節)


『弟子イエスにいいけるは、もし人妻においてかくの如くば娶らざるにしかず。イエス彼等にいいけるは、この言は人みな受納るること能わず。ただ賦けられたる者のみこれをなし得べし。』
(マタイ伝第十九章十、十一節)


[#改ページ]


 早春のことであった。わたしたちはもう二昼夜も旅行をつづけていた。短距離旅行の人は、汽車を出たり入ったりしていたが、わたしのように汽車の出たところから乗り通しているものは、三人しかなかった。それは、半ば男物めいた外套を着て小さな帽子を被り、疲れきったような顔をして、煙草をぷか/\吹かす、あまり美しくない相応な年配の婦人と、きちんとした真新しい身の廻りのものを持った、四十恰好の話ずきなその道づれと、ただ一人孤独を守っている背の高くない紳士であった。この紳士はものごしが妙に突発的で、まだそう年寄りでもないらしいのに、房々と渦巻いた髪の毛には早くも白髪が見えはじめ、異様に輝く眼はものからものへと素ばやく走っていた。
 彼は一流の仕立屋の作ったらしい、アストラカン皮の襟をつけた古い外套を着、同じくアストラカン皮の背の高い帽子を被っていた。ボタンを外したとき、その外套の下から、袖無外套と刺繍のあるロシヤ式のルバーシカが見えていた。この人の変ったところは、時々咳払いともつかず、またちょっと出しかけてすぐ途切れた笑いともつかぬ、奇妙な音を発することであった。
 この紳士は旅行の間じゅう、つとめてほかの乗客の仲間に入ったり、近づきになったりするのを避けるようにしていた。隣席の人が話しかけると、手短かにぶっきら棒の返事をしたり、本を読んだり、窓の外を見ながら煙草を吹かしたり、古い袋の中から食いものを取り出して、茶を飲んだり何か食べたりしていた。
 わたしは、この人が自分で自分の孤独に苦しんでいるように思われたので、幾度か話しかけようとしたが、いつも両方から視線が出会う度に(わたしたちは斜かいに向き合って坐っていたので、そういう機会は度々あった)、彼は眼をそらして本を読み始めるか、または窓の外を眺めるかするのであった。
 二日目の晩、ある大きな駅に汽車が停ったとき、この神経質な紳士は熱い湯を汲みに行き、自分で茶を淹れ始めた。きちんとした身廻りの品を持った紳士は(後で弁護士だと知れた)、道づれの男物めいた外套を着た煙草好きの婦人と一緒に、停車場へ茶を飲みに出かけた。
 この紳士と婦人のいない留守に、四五人の人が車中へはいって来た。その中には、皺の深い顔を綺麗に剃った、背の高い商人らしい老人が交っていた。彼は高価なアメリカ貂の外套を着て、大きな眼庇のついたラシャの帽子を被っていた。商人は婦人と弁護士の真向い…

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