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正と譎と
せいとけつと
作品ID58205
著者高村 光太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「高村光太郎全集第五卷」 筑摩書房
1957(昭和32)年12月10日
初出「アトリエ 第九巻第一号」1932(昭和7)年1月1日
入力者岡村和彦
校正者nickjaguar
公開 / 更新2021-03-13 / 2021-02-26
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 竹田流に言へば、ピカソは譎にして正ならざるもの、ドランは正にして譎ならざるものだ。譎とはたばかる事ではない。意匠に急なる事だ。正とは表現そのものに急なることだ。大雅の畫が表現の畫であり、春星の畫が意匠の畫である事は明らかである。芭蕉の稱する正風とは檀林の意匠文學から、表現そのものに歸る事を意味してゐる。芭蕉の正風を通過して其角は再び新鋭の意匠文學に傾いた。正と譎とは互に微妙な關係を保持しながら、いつの時代にも繰返される。春星は俳諧に於いて譎の才能をわづかに抑へつつ正の方向をとり、繪畫に於いて十方無礙な譎の本領を發揮した。春星の譎は東洋風の主情による。ピカソの譎は近代風の主知による。頭腦の命令無しにピカソは一筆をも動かさぬ。およそピカソの畫ほど隙の無い畫は古來珍らしい。ピカソは如何なる意味に於いてもどぢを踏まない。あり餘つた技倆によつて新らしい意匠の處女地をつぎつぎに拓いてゆく。意匠は元來そのシネ カ ノンとして新を要する。新なき意匠は零に等しい。ピカソが近作即時發表を避けるといふ傳説も、此の意味に於いてその處女性擁護と見れば尤もだ。新らしい意匠が畫的醇熟を得、次の新らしい意匠が更に準備せられた時、恐らく初めて發表をゆるす。それ故、ピカソの才無くしてピカソの教を守るもの程路に迷ふものはあるまい。ドランはいつでも少しづつどぢを踏んでゐる。彼が曾てフオオヴに屬してゐたのは唯時代的偶然に過ぎず、實は彼こそフオオヴ的過激性を持たざるものの隨一なのだ。正直一途な、眞正面からの、生理的全存在的な、繪畫そのもの、表現そのものへの追求以外に、彼には特別な異質が無い。ドランはどうかすると大といふ言葉に値する境地に到達し得る途を歩いてゐる。到達し得るかどうかはまだ分らない。彼の近作を多く知らない私には何も言へない。ピカソとドランとはまことに好き對角を成す存在で、それにマチスの一角を加へると丁度現代繪畫上の二直角が出來ると言へるかも知れない。現代畫界に偉大無し。眞に偉大なるものは、譎を透過克服したものの、譎を知らざるにあらざる正である。



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