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あめ
作品ID58231
著者林 芙美子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「林芙美子全集 第五巻」 文泉堂出版
1977(昭和52)年4月20日
入力者しんじ
校正者阿部哲也
公開 / 更新2018-12-31 / 2018-11-24
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大寒の盛りだといふのに、一向雪の降る氣配もなく、この二三日はびしやびしやと霙のやうな雨ばかり降つてゐた。晝間から町中を歩き[#挿絵]つたので孝次郎はすつかりくたびれ果ててゐた。何處でもいゝから今夜ひと晩眠らせてくれる家はないかと思つた。出鱈目に、眼の前に來た市電へ乘つて、三つばかり暗い停留所をやりすごして、家のありさうな町へ降りてみた。息のつまりさうな、混みあつてゐる電車から、自分の躯を引きちぎるやうにして、雨の降つてゐる、泥濘のひどい道へ降りた。降りるなり、そばへ立つてゐる男に、孝次郎はこゝは何處ですかと聞いてみた。「こゝは瀬戸電の出るところですよ」さう云つて、その男は古ぼけた番傘をぱちんと開いて行つてしまつた。あまり降りる人も乘る人もないと見えて、電車が行つてしまふと、廣くて暗い街路には誰一人通つてゐる者もない。孝次郎は外套を頭から引つかぶつて、燈火の光つてゐる方へ濡れ鼠になつて後戻りして行つた。戸を閉した暗い家の檐下をひらつて歩きながら、孝次郎は測り知れないほどの空虚さが、淋しさの塊になつて、冷えた腹の芯に重くたまつてくるやうであつた。再び日本へかへれようなぞとは夢にも思はなかつただけに、佐世保へ上陸してからのこの一週間あまりは、孝次郎にとつて一年の歳月がたつたやうにも考へられた。
 燈火の前まで來ると、やつぱりそこは飮み屋だつたが、此邉からまた燒野原になつてゐると見えて、その家はバラックだつたし、家の周圍は廣々とした蓮沼のやうに、燒跡の果しない擴がりが茫つと雨夜のなかに光つて見えた。孝次郎はがたぴしした硝子戸を開けて飮み屋へはいつた。
「あゝ、もう、おしまひですよ」
 子供のやうに背の小さい親爺が、あわてて店の電氣を消した。孝次郎は暗い土間につつたつたまゝで、「すこしやすませて下さい」と足もとの板の椅子に腰をおろした。臺所の薄暗い燈火の光りで、土間の卓子や椅子が濡れてゐるやうに見えた。
「もう、何もないンでね」
「さうですか、旅から來たもので、この雨で弱つてしまつてねえ……いくら高くてもいゝんだが酒があつたら一杯飮ましてくれませんか、もうへとへとなんですがなア」
 親爺は一寸の間沈默つてゐた。風が出たとみえて、ざあつと板屋根に吹きつけてゐる雨の音がはつきりしてきた。
「ねえ、をぢさん、一杯飮ましてくれませんか……」
 孝次郎は冷い靴のさきを土間に何度か磨りつけながら、濡れた外套を椅子の背にかけた。
「熱くするかね?」
「えゝ、そりやア熱くして貰へればなほいゝです」
 孝次郎は吻つとして濡れた首卷きをはづし、風呂敷包みと一緒にそばの椅子の上に置いた。十五六の男の子が水洟をすゝりながら臺所から出て來て店の硝子戸のねぢをかけてゐる。
「しまふところで氣の毒ですな」
 孝次郎にはみむきもしないで、男の子は默つて臺所へ消えてしまつた。軈て親爺が熱く燗をしたコ…

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