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作品ID | 58234 |
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著者 | 林 芙美子 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「林芙美子全集 第五巻」 文泉堂出版 1977(昭和52)年4月20日 |
入力者 | しんじ |
校正者 | 阿部哲也 |
公開 / 更新 | 2018-11-16 / 2018-10-24 |
長さの目安 | 約 14 ページ(500字/頁で計算) |
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一
美しい東京の街も、この數ヶ月の激しい變化で根こそぎ變つてしまひ、あの見果てぬ夢のやうな、愛しい都會のいとなみが、もう何も彼もみぢんにくだかれてしまつた。歩いてゐるひとたちは、長い戰爭の苦しかつた殘酷な思ひ出に、若いひとまで表情のどこかに皺をつくつて、苦味と落膽とで呆んやりした姿で歩いてゐる。
戰爭のためにおほかたの家がなくなつたことは勿論だけれども、第一、食べることが極度に苦しくなり、工面をして買へば小さい鰯一つが買へないこともなかつたけれども、そんな鰯が一尾四十錢もすると云ふのでは……全くべらぼうなことになつてしまつた。だけど、いまはもう、あの苦しい戰爭も終つて、穩當な秩序が少しづつ息を吹きかへしてきてゐる。荒涼として都會に家はなかつたけれども、――重吉も家を持たなかつた。淺草で家を燒かれて孫の清子に別れてからはすつかり一人ぽつちになり、靜岡の弟のところへ行つてみたのだけれど、これも子澤山で貧しい生活だつたので、重吉は二週間位してまた東京へ舞ひもどつて來て間もなくの終戰であつた。
家はなかつたけれども重吉は終戰となつた事にほつとするものを感じた。矛盾撞着の葛藤を引きずつたまゝ大きな敗戰の前に、日本といふ樹木はほんたうの神風にあふられてゐるやうに、澤山の哀れな落葉をあたり一面にふりはらつてゐる。一枚の落葉である重吉も呆然とこの時代のなかに生きてゆかなければならないのだ。
四谷の驛の前で重吉は暫く四邊を眺めてゐた。下町と違つて、燒けのこりの一隅がところどころにこんもりと樹木にかこまれてゐる。御所の建物も並木の向うの霧のなかにけぶつてみえた。重吉は家と云ふものを美しいと思つた。まとまつて清潔に建つてゐる家をみると重吉は、人間にとつて家と云ふものは最大の贅澤品だと思はずにはゐられない。あの家の中には女がゐる。私の家だけは燒けなくてよかつたわねと云ひさうな女達が、疎開先きから荷物をとりよせて、幸福げに荷ほどきをしてゐる姿がありありと心に浮んでくる。
重吉は昨日日比谷の公園のなかでひろつた煙草の吸殼を出して竹のパイプにさした。外國人が捨てたのであらう、火をつけるといゝ匂ひの煙がたゞようてゆく。重吉は段々吸殼をひろふのが名人になり、さかりばを歩けば五つ六つの吸殼をひろふことが出來た。――山の手の燒けのこりの家を眺めながら、重吉は清子のことを考へてゐた。無性に清子に逢ひたかつた。三月九日の夜別れたきりである。
小柄だけれど肉づきのいゝ、笑ふと小粒な皓い齒が清潔さうで可愛い娘であつた。まだ十七だつたので、重吉はもう生きてゐられるわけはないと思つてゐた。杳として樣子が判らなかつたし、自分達の逃げた隅田公園の邊には澤山の死人も出したりしてゐたから。
ぼろぼろの電車が走つてゆく。輕快なジープが走つてゆく。黄昏近い燒けた街は、霧のやうなもやをかぶつてゐるせゐか、…