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貧富幸不幸
ひんぷこうふこう
著者幸田 露伴
文字遣い新字新仮名
底本 「仏教の名随筆 1」 国書刊行会
2006(平成18)年6月20日
初出「現代」1923(大正12)年1月号
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2019-07-23 / 2019-06-28
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 もしそれ真の意味に於て言を為せば、貧と富とは幸福と不幸福とに対して相即くところは無い。貧でも幸福であり得、また不幸福であり得、富でも不幸福で有り得、また幸福で有り得るからで有る。しかし世上普通の立場に於て言を為せば、貧ということは不幸福を意味し、富ということは幸福を意味することになって、貧富は幸不幸に相即くものとなって居る。貧は不自由と少能力との体であり、富は自由と多能力との体であるからであり、また実際に於て世人の多数は、体験上に貧即不幸、富即幸の感を繰返すことの少く無い記憶からそう認めているのである。
 理窟は附けかた次第のものである。感じは変移不定のものである。どちらも余り当にはならない。貧富を幸不幸から引離してしまおうというのも、理窟は兎に角、余り甘心する人はあるまい。貧富を幸不幸に即けてしまおうというのも、そんなに面白い見解では無い、俗過ぎる。
 釈迦の弟子の中に優れた者が二人あった。その一人は富家の出であった。そしてその男は富者を憐愍した。それは富者をかわいそうなものだと真実に感じていたからで、そこで済度の善好因縁を造り出そうが為に、その男は貧者をしばらく擱いて富者にのみ接近して、これを善誘せんと、托鉢する場合には富者の家の前にのみ立った。他の一人は貧家の出というほどでも無いが貧者を憐愍して、つくづく貧者を幸福にしたいと思った。そこで自分の托鉢する場合には貧者の家をのみ択んで立って、伝道化度の好因縁を造ろうとした。富貴の門はその顧るところで無かった。二人とも道理のある考で有り、美しい感情の流露であった。しかし釈迦は二人を弾可した。それは傾かんよりは平らかに、私有らんよりは公に、貧富を択むの念に住せずして平等に化度したが宜しいという意に於てであった。これは勿論もっともの事で、人天の導師、一代の教主たる以上はこう無くては叶わぬ筈である。釈迦の親族で、無論高貴の種姓で、そして二十相好を具えたと云わるる美男で、かつまた心の優しい、しかも道に進むの望を有して弟子となっていた阿難は、この事を目撃して、成程貧富を平等に視なければならぬと考えたので、如何なる家をも択ぶこと無く接近した。ところが阿難はまだ前の二人の弟子にも劣っていた境地の身分であった。ただその所行のみが釈迦の言を実現したのだった。そこで偶然に最も鄙しい種族の家をおとずれると、忽ち其家の女に惚れられてしまった。貧富の前に大手を振って歩いたのは可いが、恋という変な者に掩撃されたので、鉛の獅子が火に逢ったように忽ちぐにゃりとなってしまって、捕虜にされて危く自体を失わんとするに至った。この魔[#挿絵]女因縁の譚は面白いことを表わしている。貧富などいうことは恋の烈火の前には一片の塵ぐらいなものだ。
 閑話休題、貧者は多い、富者は少い。貧の為に嗟嘆したり怨憤したり、甚しきに至っては自ら殺し、人を殺すに至る者も…

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