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念仏と生活
ねんぶつとせいかつ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「仏教の名随筆 2」 国書刊行会
2006(平成18)年7月10日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2018-02-12 / 2018-01-27
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

      *

 私の信仰を言いますと、念仏申さるるように生きるという一語に尽きる。法然上人も、この世を渡るには念仏申さるるように生きよと仰せられた。念仏者のイデオロギーは念仏がとなえられるように生きて行くということである。そのきめ方は色々あるであろう。倫理的な生き方もあり、国のためになるように生活原理を立てることもあろう。共産主義者ならば労働者のために役立つように生きて行く。恐らく皆さんもそうして生きて行っている訳であろうと思う。
 私はその生活原理を何で決めるかと言えば念仏申さるるように生きるということによって定める。いろいろなことを知っていながら、いろいろな出来事がありながら、それを総括する根本原理は常に念仏申さるるように生きるそれが南無阿弥陀仏の信仰である。念仏申さるるように生きることそのことが真宗信仰の生活である。これはいいか、これは間違いではないか、という生活は不安であり、同時に元気がない。ところが念仏申さるるように生きると元気が出る。

      *

 では何故念仏申さるるように生活の第一原理をきめるのか。それは私はいろいろやって来たが他のものでは不可能だったからである。私はどうして生れて来たのか知らなかったが、十八九の時、とにかく生きているということに気づいてから何をやって来たかと言えば、どういう風に生きることが最も正しいかということを二十何年も考え通して来た。そして結局念仏申さるるように生きることが最も正しいと分ったのであった。
 ではどうしたら念仏申さるるように生きることが出来るかと言えば、第一正しい人間になろうということを考えねばならぬ。第二は生きて行くためには色々な自分の興味をひくところのもの、立身出世をしたいという欲望、友達との愛、恋愛、美しい自然を鑑賞する、いろんな芸術にふれる。そうした人生の欲望というものを、はじめはいいの悪いのと言わないで、自分の欲しいものは何でも欲しいその大きな執着心を起さねばならぬ。それが生きることの動機であるから、その欲望を起すことが必要である。

      *

 その上にいい人間になろうと考えねばならない。正しいことには千万人と雖も行く。この二つのもののどちらもが生命の中に強くなければならぬ。それが無いことは生命に対して真面目でないことである。その二つの欲望が弱いならば、信仰はいらない。いい加減のところに落ちつく底のものである。この二つの欲望が弱くては信仰に到達し得ない。
 よい人間、欲望をおこさず道徳的な考えばかりを持つ人も信仰に到達しない。この二つのものがあってこそ二つの衝突がある。生命の機構がそういう風に出来ているから必ず衝突する。その時この衝突をどうして切り開いて行くか。この問題にぶっつかった時、どうしても他の方法に依っては解決が出来ない。
 たとえば何よりも大きい問題は犠牲ということ…

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