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冬の法隆寺詣で
ふゆのほうりゅうじもうで
作品ID58313
著者正宗 白鳥
文字遣い新字新仮名
底本 「仏教の名随筆 1」 国書刊行会
2006(平成18)年6月20日
初出「読売新聞」1958(昭和33)年1月1日
入力者門田裕志
校正者杉浦鳥見
公開 / 更新2018-10-28 / 2018-09-28
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 十二月中旬、私は法隆寺詣でをした。私は青年のころから今日までに幾度この寺へ行ったことか。さして意味のある事ではないので、ただ何かのはずみで身に着いた習慣を追っているようなものである。半世紀あまりも前に、Y新聞の美術面担任記者となった時、それでは奈良の寺院や仏像ぐらいは、一通り見て置かねばなるまいと思い立って、上野の博物館員の紹介状をもらって出掛けた。法隆寺では、夢殿の観音の修理をしていた。私はいわれ因縁を知らず、この秘仏の有難味を知らず、ただの枯木の仏体を見たのに過ぎなかった。
 その後、京阪地方に来た次手には、よくこのお寺に立ち寄った。半世紀以来奈良文化の研究はますます盛んになり、寺院や仏像の美術鑑賞は、多くの新人によっても豊かに試みられ、ふるぼけた古物が、さんぜんたる光を放つようになっているらしいが、私は奈良に於いて美術研究をしようと企てたことはなかった。幾つもの奈良美術鑑賞本は殆んど読んだことなく、案内書をも殆んど読んでいない。飛鳥も天平も推古も、時代別なんか考えていない。ただ漠然見て過ぎているだけである。今年も去年も一昨年も、十二月に入っての初冬のころ、修学団体などで雑沓されない時に、ふと思い立って、このあたりで半日を過すだけであった。初冬の日は静かである。参拝者は三四人に過ぎない。「冬枯や奈良にはふるき仏達」か。「冬の日や奈良にはふるき仏達」か。しかし、私はお寺まいりをし、仏様を見て歩いて、仏心を起すのではない。でも、仏様を見ていると、不思議にいい気持がするのであった。時々は、いい気持よりまずい気持にされることもある。金堂も美術品保存の主旨から面目を新たにされているが、昔のような神秘縹渺の趣は無くなった。薄暗いところで、漠然とした壁画を見詰めて、幼な心に空想していた極楽世界を夢見ることも出来なくなっている。金堂の壁画は、破損崩壊をふせぐために、近所の倉庫に移されているのである。そして、釈迦浄土も薬師浄土も明るい光に照らされている。明るい所に陳列されているので、画面がよく分るのだが、極楽浄土としての恍惚境は、この倉庫に展示されている壁画からは感ぜられないのである。全体、古風な浄土観なんかは現代人の頭脳には消滅しているのであろうから、金堂の壁画だって時の流れにつれて崩壊の運命を持っているのなら、崩壊にまかせたらよさそうにも思われる。移るものの移るにまかせ、亡びるものの亡びるに任せるのが、仏教の精神であるまいか。諸行無常は諸行無常である。
 私には仏教知識も仏教美術も極めて乏しいのであり、またそれ等に関係の本は殆んど読んでいないので、なんど法隆寺かいわいをうろついても、本格的の知ったか振りは言えないのだが、私には、奈良の大仏は、図体ばかり大きくっても、あの顔はいつも凡庸そのもののように思われる。救世観音とは世を救う仏様と云う意味か。観音様は、西洋のマリ…

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