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瀬戸内海の島々
せとないかいのしまじま |
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作品ID | 58321 |
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著者 | 柳田 国男 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本柳田國男集 第一巻」 筑摩書房 1963(昭和38)年9月25日 |
初出 | 「民族 第二巻第四号」民族発行所、1927(昭和2)年5月1日 |
入力者 | フクポー |
校正者 | きゅうり |
公開 / 更新 | 2020-08-08 / 2021-12-08 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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安藝大崎上島下島
自分は大崎下島に於いて、此職業の女を招いて、仔細に内側からの觀察を聽取つた。今記憶して居る二三を記すならば、御手洗はもと神の社から出た名であるが、帆前船の時代に風待ちの湊として發達した。西やヤマジの吹く間は全盛だが、一旦コチが吹き始めると上がつたりである。といふわけは上り船は荷物ばかり多くても、船方の懷に金が無い。下りには金を持つて居るから、風を待つて居るうちは幾日も散財するが、流石順風が吹き出しては、繋つて居る口實が無いから皆出てしまふからである。以前西國の大名衆の海路參勤をした時代には、その船が風待ちをする間はえらい繁昌で、下々の者までは行き渡らぬので困つたことも多かつた。近年では世界大戰の終近い頃、石炭積みのダルマ船が何百ぱいと無く往來した時代で、其頃は三百人近い女が居たが、戰後二年目に私の訪れた時には七十人内外になつて居た。島の一番大きな置屋は、久しい前から念佛道場になつて居た。
建築物ばかり元のまゝで、家が退轉してしまつたのである。此家には不思議な傳説が殘つて居る。九十九人より多くの女は置くことが出來ず、百人にすると必ず一人が死んだなどと謂つて居た。現今は勿論そんな大きなのは他に無い。大抵は五人か七人で、中には一人しか居らぬのもあつた。外から見て何人といふことを知るには、店土間の板壁に三味線がつるしてあつた。一見質素な商人のやうな表口に、こんな物を見るのは異樣であつた。
家の主人をオトッツァンと呼ぶ。チョキは其オトッツァンが漕ぐのである。人數の僅かな家ではよその小舟に托することもある。通例は五人か六人で一艘を漕ぐやうであつた。日沒に海岸の方へ若い女が澤山行くのを不思議に思つて居ると、波止場に臨んで檢番といふものが在り之へ着到をつけて札を貰ひ、一番二番の順序を立てゝ出て行く。早いほど有利だから爭ひがあるらしい。客があつても無くても正十二時までは水上に居なければならぬ。夏の月夜などは大いによいが、寒い雨風には悲しくなるさうである。雨の降る晩はどうするだらうかといふと、漁夫の着るやうなトンザといふものを被るので、傘などは迚もさゝれぬさうである。沾れるから上げておくれようなどと下から聲をかけると、可愛さうに思つて呼んでくれるさうである。オトッツァンは賣れ殘りだけを載せて夜中には町へ歸り、朝になると再び迎へに行くのである。夜遲く馴染の船に往つて居るといふ場合も珍らしく無い。
第二の客があるといふ合圖には喇叭を吹く。それを聽いて何番の誰といふ事が分る。昔はこれが太鼓であつたといふ。即ち新しい色町のモラヒに該當するもので、之を拒絶しようとする前の客は、それから餘分の花を拂はされる。撥一本が十錢などといふことも聽いたが、詳しい計算法は覺えて居ない。陸上の青樓にも、以前は此風習が普通であつた。或は馴合ひで太鼓を打つ者もあるといふので、一番…