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いやな感じ
いやなかんじ |
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作品ID | 58337 |
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著者 | 高見 順 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本の文学 57 高見順」 中央公論社 1965(昭和40)年5月5日 |
初出 | 「文学界」1960(昭和35)年1月~1963(昭和38)年5月 |
入力者 | 悠悠自炊 |
校正者 | Butami |
公開 / 更新 | 2020-01-30 / 2019-12-27 |
長さの目安 | 約 598 ページ(500字/頁で計算) |
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第一章
その一 魔窟の女
暗い踏切の手前で円タクをとめた。旦那、お楽しみですねと若い運転手がにやにやしながら、釣り銭を出した。なに、言ってやがると砂馬慷一はその小ぜにをひったくるようにした。道路の向うを汽車の線路が横断している。旧式の機関車がその道路の真中に立ちはだかって、老いぼれの喘息病みみたいに、ゼーゼーと白い息を吐いている。市外の、ここは場末のどん尻だ。
歩道のはじに屋台が並んでいる。縫い目に一列にとっついたシラミみたいだ。屋台はつぎはぎだらけの布でかこってある。この通りはからっ風が強いのか、ぼろ隠しのような布の下には重石がつけてある。石は囚人を縛るような麻縄でからげてある。豚の腹綿を焼いている煙が、もくもくと布の間から立ちのぼっている。
砂馬と俺は右手の路地にはいった。この辺が一等地だと砂馬は言う。上玉の女が揃っているというわけだ。道の左手は、安いけど女が落ちる。俺たちは、その日、金を持っていた。リャクでせしめた金である。
一等地の女は路地に出て、客の引っ張りをしたりはしない。この魔窟は女からひったくられやすいソフトをかぶって来るなとか、ポケットの万年筆を女に取られて泣く泣くあがったとかいうのは、同じシマでも場所がちがうのだ。「品よく」(とは砂馬の言葉だが)家におさまっていて、
「ちょいと、ちょいと」
女の顔だけが見える小窓から、通りすがりの男たちに呼びかける。
「ちょいと、兄さん」
「ちょっと、ちょっと、眼鏡の旦那」
両側から誘いの声がかかる。ちょんの間なら、一円五十銭でも自分を売ろうという呼びかけである。
「ちょいと、洋さん」
洋服さんという意味である。ちょっと、その洋服を着た旦那――という呼びかけである。きょう日とちがって、和服の着流しがまだまだ多かったころである。
「ちょっと寄っといでよ」
「ほらほら、ちょっと、ここをのぞいてごらんよ」
日の暮れるのが早い季節で、暮れてから大分になるが、時間としてまだ宵の口だ。だのに、細い路地には早くも人がひしめいていた。
路地を行く男は、こうした両側の小窓から、女たちの眼と声の一斉射撃を浴びるので、これでなかなか度胸がいる。路地の真中を、ほかの用で歩いているかのような足どりで行くのは、こういう場所にまだなれない男である。ときどき、ちらっと横目で小窓のなかをのぞく。声をかけられると、大ゲサに飛びのいたりする。なれた男は、雨降りの軒伝いみたいにして、いちいち小窓をのぞいて行く。買いたい女を物色する。お、いい女だねえと言ったりする。これは逆に、寄る気のないちゃらんぽらんである。心得た女は、いけすかないねえとか、場所ふさげをするんじゃないよとやり返す。
俺は、まあ、横目使いと軒伝いの中間みたいなものだった。
気のせいか、この路地には、トロ(精液)の臭いとそれから消毒液の臭いが、むーんと…