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今の写生文
いまのしゃせいぶん
作品ID58454
著者島村 抱月
文字遣い旧字旧仮名
底本 「抱月全集第四卷」 天佑社
1919(大正8)年9月30日
初出「文章世界」1907(明治40)年3月
入力者フクポー
校正者きゅうり
公開 / 更新2019-11-05 / 2019-12-12
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ▲英國現代の文學者に、ホワイトといふ人がある。わが國ではまだ知られてゐない、英國の讀書界、殊に家庭の間には、非常に持て囃されてゐる。その人の作に、『セルボーンの博物學』と云ふ書物がある。全編書翰體で、セルボーンから寄せたやうになつてゐる。今日は森に入つて、こんな珍らしい草花を發見したとか、今日はかういふ樹木を見たとか、今日はかういふ鳥を見たとか、日ごと/\の出來事を書いたものだが、その筆法がいかにも寫生的か、讀者はさながらその境にあつて、親しくその物に接してゐるやうな感じがある。
 ▲けれども、この書物は、わが國の寫生文とは違ふ。わが國の寫生文は文學であるが、この書物は文學ではない。博物學の説明を、趣味あらしめる爲めに、姑らく文學の形を借りて書いたのに過ぎぬ。趣意が全然違ふから、列べて比較する譯には行かぬ。
 ▲西洋で、寫生文として最も古いものは、ボカチオの作デカメロンの緒言であらう。殊にその前半がさうである。千三百四十八年から九年に渉つて、フロレンスの町に惡疫が猖獗を極めた。七人の宮女と三人の紳士とが、それを數哩の市外に避けて、どうせ長くは生きぬのだから、生ある中、出來るだけ氣儘に暮らして、逸樂を縱にしようといふ所から、百物語の發端は起こつて來るのだが、まだその前、渠等が市外に去らぬ前に、市民が疫病の襲ふ所となつて悶え苦しむ有樣、續々と枕を竝べて死んで行く慘鼻の樣から、片附けるものもない死屍を餓えた犬が貪り食つて、忽ち病毒に感染して、その儘斃れて行く樣なぞを歴然と目の前に浮ぶやうに描き出した所は、疑ひもなき寫生文である。
 ▲然し、これは古い寫生文だといふだけで、それが今の我が國の寫生文と、どういふ關係があるといふのでもない。
 ▲今の所謂寫生文は未完成のもの、無形式のもので、それだけで、完成したものと見ることは出來なからう。いはゞ寫生文は、手習ひにいゝ、他日完成したものを作るべき準備として、筆ならしをするにいゝ、筆力を養ふにいゝ。それのみで滿足して、進まなかつたならば、或は何の役にも立たぬかも知れぬ。
 ▲尤も、未完成のものが、すべて必ず興味がないとは限らぬ。レンブラントのスケツチは、雪舟の墨繪にも比較すべきものであるが、その下書きである所にまた一種の興味がある。先頃物故した獨逸のメニツエルのスケツチなども、矢張り同樣である。寫生文もこれと同樣の意味に於いて、一種の興味は無論あるが、然し、スケツチでいゝものは、それが完成せらるればなほいゝ如く、未完成の寫生文も、それが完成すればなほいゝものとなる譯である。
 ▲少なくとも、寫生文は、これから小説を書かうとか劇を書かうとかいふ若い人々が、先づ手習ひとしてやるには、最もよいものであらう。
 ▲寫生文の興味は、下繪の興味と同じであるといつたが、或は現に今の寫生文の中にも、渾然とした興味を輿ふるものがあるといふ…

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