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断崖
だんがい
作品ID58462
著者江戸川 乱歩
文字遣い新字新仮名
底本 「江戸川乱歩全集 第15巻 三角館の恐怖」 光文社文庫、光文社
2004(平成16)年2月20日
初出「報知新聞」報知新聞社、1950(昭和25)年3月1日~12日
入力者nami
校正者A.K.
公開 / 更新2019-03-16 / 2019-02-22
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 春、K温泉から山路をのぼること一哩、はるか眼の下に渓流をのぞむ断崖の上、自然石のベンチに肩をならべて男女が語りあっていた。男は二十七八歳、女はそれより二つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前をかさねている。
女「たえず思いだしていながら、話せないっていうのは、息ぐるしいものね。あれからもうずいぶんになるのに、あたしたち一度も、あの時のこと話しあっていないでしょう。ゆっくり思い出しながら、順序をたてて、おさらいがしてみたくなったわ。あなたは、いや?」
男「いやということはないさ。おさらいをしてもいいよ。君の忘れているところは、僕が思い出すようにしてね」
女「じゃあ、はじめるわ。……最初あれに気づいたのは、ある晩、ベッドの中で、斎藤と抱きあって、頬と頬をくっつけて、そして、斎藤がいつものように泣いていた時よ。くっつけ合った二人の頬のあいだに、涙があふれて、あたしの口に塩っぱい液体が、ドクドク流れこんでくるのよ」
男「いやだなあ、その話は。僕はそういうことは詳しく聞きたくない。君の露出狂のお相手はごめんだよ。しかも、君のハズだった人との閨房秘事なんか」
女「だって、ここがかんじんなのよ。これがいわば第一ヒントなんですもの。でも、あなたおいやなら、はしょって話すわ。……そうして斎藤があたしを抱いて、頬をくっつけ合って泣いていた時に、ふと、あたし、アラ、変だなと思ったのよ。泣き方がいつもより烈しくて、なんだか別の意味がこもっているように感じられたのよ。あたし、びっくりして、思わず顔をはなして、あの人の涙でふくれ上った目の中をのぞきこんだ」
男「スリルだね。閨房の蜜語が忽ちにして恐怖となる。君はその時、あの男の目の中に、深い憐愍の情を読みとったのだったね」
女「そうよ。おお可哀想に、可哀想にと、あたしを心からあわれんで泣いていたのよ。……人間の目の中には、その人の一生涯のことが書いてあるわね。まして、たった今の心持なんか、初号活字で書いてあるわ。あたし、それを読むのが得意でしょう。ですから、一ぺんにわかってしまった」
男「君を殺そうとしていることがかい?」
女「ええ、でも、むろんスリルの遊戯としてよ。こんな世の中でも、あたしたち、やっぱり退屈していたのね。子供はおしおきされて、押入れの中にとじこめられていても、その闇の中で、何かを見つけて遊んでいるわ。おとなだってそうよ。どんな苦しみにあえいでいる時でも、その中で遊戯している、遊戯しないではいられない。どうすることもできない本能なのね」
男「むだごとをいっていると、日が暮れてしまうよ。話のさきはまだ長いんだから」
女「あの人、ちょっと残酷家の方でしょう。あたしはその逆なのね。そして、お互に夫婦生活の倦怠を感じていたでしょう。むろん愛してはいたのよ。愛していても、倦怠が来る。わかるでしょう」
男「わかりすぎるよ。ごちそ…

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