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伊能忠敬
いのうただたか
作品ID58549
著者石原 純
文字遣い新字新仮名
底本 「偉い科學者」 實業之日本社
1942(昭和17)年10月10日
入力者高瀬竜一
校正者sogo
公開 / 更新2019-01-11 / 2018-12-24
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

地図の作製

 どこの国でも、その国の全体の有様を知るのには、地図がつくられていなければなりませんが、正しい地図をつくるのには、すべての場処に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔は殆んど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。それと云うのも、このような測量をするのにはいろいろの精密な器械も必要でありましたし、また土地測量の基準として星の位置を正しく観測することも必要であったからです。そこで、このような仕事が、我が国では最初に誰によってなされたのかと云いますと、それはここにお話ししようとする伊能忠敬に依るのでありまして、しかもその測量は日本全国に及んでいるのですから、実に驚くべき事がらでもあるのです。それは今から百数十年も前のことでありますし、その時代にはどこへ旅をするのにも、すべて自分で足を運ばなくてはならなかったので、全国の地図を完成するのにも、二十年に近い歳月を費さなくてはならなかったのでした。そのようなことを思うと、この大きな仕事を自分一人でなし遂げた伊能忠敬の功績はまことにすばらしいものであったと云わなければなりますまい。そのほかに、ちょうどこの時代にはわが国の北辺がようやく騒がしくなり始め、それに伴れて林子平の『海国兵談』なども出て、国防の問題もいろいろ議論せられるようになっていましたので、それにつけても正確な地図が必要とされたに違いないのですから、この点から見ても忠敬の仕事は大きな意味をもっていたと云わなければならないのでしょう。
 ところで、忠敬がどのようにしてこの土地測量の仕事を始めるようになったかと云うことについても、ともかくも古い昔の時代であっただけに、特別な決心が必要であったのに違いないので、それらの事がらについて、次に少しくお話しして見たいと思います。

忠敬の前半生

 伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太と云いましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由とも称しました。上総国山武郡[#「山武郡」はママ]小関村で延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったと云うことです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記している処によっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかその方に向うことなどは思いもよらない処であったので、十八歳になった際には、下総佐原町の伊能家に婿養子に遣られ、そ…

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