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杉田玄白
すぎたげんぱく
著者石原 純
文字遣い新字新仮名
底本 「偉い科學者」 實業之日本社
1942(昭和17)年10月10日
入力者高瀬竜一
校正者sogo
公開 / 更新2019-11-11 / 2019-10-28
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

江戸時代の医学

 自然科学のいろいろな部門がすべてそうであったように、医学もまた我が国でだんだんに発達して来たのは明治以後のことでありますが、しかしそうなるまでにはやはり江戸時代の終り頃に多くの蘭学者たちによって西洋の医学がさかんに輸入されたことを見のがしてはならないのです。もちろんそれ以前にも我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかと云うようなことは、まるでわかっていなかったのですから、本当の意味での医学が発達するのには、どうしても西洋の医学を輸入する必要があったのでした。ところでこれを実際に行った人々のなかで、ここにお話ししようとする杉田玄白やまた前野蘭化などと云うのが特に名だかいのですが、それに続いてたくさんの蘭学医が出たので、今日の人々はこれらの先覚者たちの並々ならぬ苦心とその功績とを忘れてはならないのでありましょう。
 尤も杉田玄白よりも少し以前に、京都に山脇東洋という名だかい医者がありました。その父の清水東軒という人も同じく医者で、山脇玄修という人について医学を修めたのでしたが、後に東洋がその養子となって山脇と名のったのだということです。しかしこの医学というのはその頃古医方と云われていたもので、上に述べた西洋の医学とはちがったものであったのですが、山脇東洋は人体の本当の有様を知るのには、どうしてもこれを実際に解剖して真相を見きわめなくてはならないと感じ、久しい間それを念願していたのでした。
 それでもこの頃は屍体の解剖などが厳禁せられていたので、獺などを用いてそれをしらべたりしていましたが、これでは人体のことはまだよくわかりません。そこで十五年の歳月を費して機会を待っているうちに、漸く寳暦四年になって死刑屍の解剖が許されることになり、その年の閏三月七日に行われた死刑者の屍を請いうけてその解剖を実行したのでした。この時、山脇東洋と共に若狭の酒井侯の侍医であった小杉玄適という人もそれを実見して、ここに始めて内臓の有様が明らかになったということです。東洋はこの結果を記して、「臧志」という一書にまとめました。今から見れば、それには幾らかの誤りもないではありませんが、しかしともかくもこれは我が国で人体内臓のことを記した最初の書物として、重要な意味をもっているのです。
 東洋と共に屍体解剖を実見した小杉玄適と同じく、杉田玄白もまた酒井侯の侍医であり、互いに親しい間柄であったことは注目するに足りることがらで、そこで東洋の書物からも大きな刺戟をうけて、後に玄白が同様にそれの実見を行ったことは、この時代の医学の上に重要な意味をもつ事がらであったと云わなけれ…

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