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個人的な余りに個人的な饒舌
こじんてきなあまりにこじんてきなじょうぜつ
作品ID58567
副題=龍之介対潤一郎の小説論争=
=りゅうのすけたいじゅんいちろうのしょうせつろんそう=
著者佐藤 春夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 佐藤春夫全集 第24巻」 臨川書店
2000(平成12)年2月10日
初出「文学界 第五巻第七号」1951(昭和26)年7月1日
入力者焼野
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2019-07-24 / 2019-06-28
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 白鳥先生のあとを承けてこの稿を草するのはわが光栄とするところである。
 だが文学史的に回顧するとすれば、逍遙対鴎外、透谷対愛山の論争につづくべきものは大町桂月対新詩社の「君死に給ふこと勿れ」に関する論争を取上げるのが至当であり、それにつづいては更に自然主義時代の諸論客中に然るべき論争もあるのを無視して一足飛びに初頭とは云へ大正ならぬ昭和時代の龍之介対潤一郎の小説論の争ひでは、少々年代が飛び過ぎるし、第一、龍之介・潤一郎のものは論争と呼ぶには不適当と思はれる節もないでは無いが編輯者には何れ、独自な識見とか商策もあるのであらう。なるほど龍之介と潤一郎との小説論の争なら役者も花形揃ひ、外題も申し分無しと云ふのであらう。それとも単に彼等の寡聞のせゐで少し時代の遠いところはご存じ無しなのか。どちらにせよ僕の関知せぬところである。僕は与へられた題目を処理しさへすればよいのであらう。
 龍之介・潤一郎の論争を回顧するのは僕が最も適任だとおだてられても決してそれに同感したわけでも無く、これは間尺に合はない仕事と思ひながらも、そのそばからそれを引受けてもよいと思つたのは、いつもの軽挙妄動では無く、たぶん今はおほかた忘れさうになつてゐるあの頃の事どもを、この機会にもう一度思ひ出してみたいと云ふ気が無意識に働いてゐたものらしい。



 何しろ二十余年前の話である。両者の主張の内容も今は大まかに思ひ出す程度で、あまりはつきりとは印象されても居ないで、かへつて当年の二人の友人に関しての断片的な追憶の方が先づ想ひ起されたほどであつた。
 だからこれを書くに当つては、先づ潤一郎の「饒舌録」と龍之介の「文芸的な余りに文芸的な」をもう一度精読し直さなければなるまい。この時間つぶしを、僕は最初に敢て間尺に合はない仕事と感じたのも無理はあるまい。
 潤一郎のものは手元にある改造社版全集の第十二巻の塵を払つて枕頭に運んだ。龍之介のものは特に持つて来て貰つた岩波の戦後版の「文芸的な余りに文芸的な」を改めて繙いた。龍之介の全集は以前に盗み出され、わが架上から失はれて久しい。岩波のこの本ははじめてみる版である。



 億劫なと思ひながらも読みはじめてみると、龍之介のも潤一郎のも、さすがに練達な文章の自由自在な表現力に今さら敬服しつつ、ともに百頁にあまる一文を一気に通読してすこぶる面白かつた。さて往年、これ等の文字に優るとも劣らない言葉で談笑を恣にして時の移るのを忘れた日夕をそぞろに思ひ出し、二人の故人(一人は亡く一人は今は遠い)の文章のところどころにわが名の出て来るのをわれながら懐しみながら、人の僕を潤一郎対龍之介の論争の回顧者として最適といふのも、まんざらに当らぬでも無いと思つた。



 あれも昭和二年かその前年でもあつたらうか。まだ寒さの残つてゐる早春であつた。偶々関西から上京し…

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