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新詩社と石川啄木
しんししゃといしかわたくぼく
副題――一つのおぼえ書き――
――ひとつのおぼえがき――
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 佐藤春夫全集 第24巻」 臨川書店
2000(平成12)年2月10日
初出「文芸 第一二巻第四号臨時増刊 石川啄木読本」1955(昭和30)年3月1日
入力者焼野
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2019-02-20 / 2019-01-29
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 お前はきつと新詩社のころの啄木は知つてゐるだらう。かういふ質問を時々受ける。明治四十年代、新詩社は既に解体しながら、その後身とも云ふべき「スバル」に啄木が編集同人をしてゐたころ、十七八の自分は啄木の選歌に応募した事があつた。啄木の外には杢太郎の選歌にも一度投稿した。だから先輩とは云へ、啄木とは大体同じ時代なので、彼を知つてゐるだらうといふ質問は決して見当外れではない。どこかで必ず会つてゐていいはずだと自分でもさう思ふ。ところが自分は啄木を一度「スバル」発行所(神保町の角から九段寄の右側を七、八軒目ぐらゐを通から少し奥まつたところにあつた弁護士平出修氏宅)に行かうとしてゐた時、その玄関前で見かけたみすぼらしい短身のうしろ姿(たしかかすりの袷に羽織なしではなかつたか)を、啄木だと教へられたのを一度注意した以外に、啄木にはつひぞ会つたおぼえもない。その時啄木を教へたのは同郷の和貝彦太郎氏、夕潮と号した新詩社の同人で当時は上京して麹町番町の与謝野先生のお宅の書生格の食客をしてゐた人で、啄木とは時々顔を合してよく知つてゐた様子である。
 その時はやはりスバル発行所へ行くつもりでここまで来たのであつたが啄木のうしろ姿を見かけると、何故か和貝氏は発行所へは立寄らないでしまつたので、終に啄木と同席する機会とはならなかつた。
 人の問に答へて、いつもこの事実を云ふのが恒である。ところが或る時、いや会つてゐない筈はない。必ず会つて言葉を交してゐると云ひ張る人が出て来た。その人は折からその時与謝野家から借り受けて来た写真にその証拠を持つてゐるといふので、その写真を取り出してくれたのを見ると、与謝野寛先生渡仏送別会の記念写真で、前列中央に鴎外ひろし両先生が並んだその後列の左に高村光太郎氏が一きは背が高く、その両脇にゐるのが紛ふ方なく一人が啄木、ひとりは学生服の自分に相違ない。
 かうして同じく写真にうつつてゐる限りは、この時一度にしても会つて口ぐらゐは利いたに相違ないと云ふのである。なるほど、会つてゐることは現にこの証拠があつてもう争ふ余地もない。自分が忘れてゐたのである。しかし口を利き会つた記憶はまだどうしても思ひ起せない。そこで思ふに、自分は元来が無口で柄になく人見知りをする性なので初対面の人になれなれしく口を利くことはめつたにない。それに啄木もきつと子供のやうな自分には何等の言葉もかけないで紹介されてもお互に黙礼ぐらゐを取交してすましたものと思はれる。これは推定であつて記憶ではないが、ともかく啄木と話をした記憶は更にない。もしその事実があれば、当時、啄木には決して無関心でなかつた自分がそれを印象してゐない道理はないと思ふ。
 と云つて自分はわが記憶をそれほど信頼してゐるわけではない。それどころか現にこの記念写真を見て、当日は公務多端のため退庁がおくれ、帰宅して着がへるひまも…

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