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作品ID | 58573 |
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著者 | 横光 利一 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本 横光利一全集 第二巻」 河出書房新社 1981(昭和56)年8月31日 |
初出 | 「文藝春秋 第四年第十號」1926(大正15)年10月1日 |
入力者 | 姉十文 |
校正者 | mitocho |
公開 / 更新 | 2017-09-12 / 2017-08-25 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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一
たうとう彼の妻は死んだ。彼は全くぼんやりとして、妻の顏にかかつてゐる白い布を眺めてゐた。昨夜妻の血を吸つた蚊がまだ生きて壁にとまつてゐた。
彼は部屋に鍵をかけたまま長らくそこから出なかつた。彼は蚊が腹に妻の血を蓄へて飛んでゐるのを見ると、妻の死骸よりも、蚊の腹の中で、まだ生きてゐる妻の血に胸がときめくのを感じた。
二
彼は家をたたむと一時妻の家へ行つてゐた。彼はそこから日日金のある間、氣力を引き立てるために自動車を乘り廻して出歩いてゐた。しかし、彼は妻の葬に示してくれた多くの知己の好意を思ひ出すと、それにまだ一本の禮状さへ出してない自分のだらしなさが、突然ぼんやりした心の上へ重々しくのしかかつて來た。
「とにかく今は赦して貰ひたい。俺は、今は何も出來ないんだ。赦してくれ、赦してくれ。」
彼はさう呟きながら、またふらふら自動車に乘り歩き、夜遲く妻の家へ疲れた身體で歸つて來た。しかし、さて寢ようとすると、いつも義妹の身體がひとり蚊帳の中で青白くぐつたりと眠つてゐた。
三
彼はだんだん義妹の身體が恐くなつた。或る日、彼は默つて妻の家から逃げ出した。全く彼の行爲は、彼女の家人にとつて疑はしいことに相違なかつた。しかし、彼としてみればその場合それ以外の方法を考へ出すことは出來なかつた。
彼は新らしい生活の荷物として、先づ輕い齒ブラシとタオルとを買つて恩師の家へよつた。そこで彼は好意ある恩師の言葉のままに暫くそこに落ちつくことにした。
その夜彼は寢ようとして寢卷を着替へにかかると、不意に一疋の白い蛾が粉を飛ばせて彼の頬へ突きあたつた。彼は、はツしと掌で蛾を打つた。蛾は彼に打ち落とされたまま、暫く苦しさうにばたばた重厚な羽根で疊の上を叩いてゐた。と、どこに力があつたのか、突如として蛾はまた彼を目がけて奇怪な速さで突きかかつて來た。彼はひらりと身を低くめた。蛾は障子の棧にあたると再びそこから彼の腰を睨つて飛びかかつた。
「此奴、何者だツ。」と彼は思つた。彼は直ぐまた蛾を掌で打ち降ろすと、部屋の隅に突き立つたまま暫く蛾の姿を眺めてゐた。
四
次の日、彼はぶらりと旅に出た。彼は此の頃漸く自然の美しさが彼なりに分りかけて來たやうに思はれた。彼は物を見るとき、なるだけその物の形だけを見るやうにと心掛けた。形だけを見てゐると、いかに些細な物體にもそれ相應の品位と性格とがあつた。さう云ふ彼の物の見方に一番多く見られてゐたのは、彼の亡くなつた妻であつた。凡そいかなる物の觀じ方があらうとも、死は形が亡くなると云ふことにちがひなかつた。彼の常に一番眼に觸れてゐた形である空と妻との二つのうち、最も美妙に動き續けて茫々たる空の倦怠を破つてゐた妻の形が、俄に彼の眼界から無くなつたと云ふことは、とにかくこれから空漠たる空のみ絶えず彼の相對として眼に觸れると云ふ豫想か…