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つま
作品ID58576
著者横光 利一
文字遣い旧字旧仮名
底本 「定本 横光利一全集 第二巻」 河出書房新社
1981(昭和56)年8月31日
初出「文藝春秋 第三年第十號」1925(大正14)年10月1日
入力者姉十文
校正者mitocho
公開 / 更新2017-12-30 / 2017-11-24
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 雨がやむと風もやむだ。小路の兩側の花々は倒れたまま地に頭をつけてゐた。今迄揺れつづけてゐた葡萄棚の蔓は靜まつて、垂れ下つた葡萄の實の先端からまだ雨の滴りがゆるやかに落ちてゐた。どこからか人の話し聲が久し振りに聞えて來た。
「まア、人の聲つて懷しいものね。」と妻は床の中から云つた。
 妻はもう長らく病んで寢てゐた。彼女は姑が死ぬと直ぐ病ひになつた。
 遠くの荒れた茫々とした空地の雜草の中で、置き忘れられた椅子がぼんやりと濡れた頭を傾けてゐた。その向ふの曇つた空の下では竹林の縁が深ぶかと重さうに垂れてゐた。
 私は門の小路の方へ倒れた花を踏まないやうに足を浮かせて歩いてみた。傾き勝ちな小路の肌は滑かに青く光つてゐた。その上を細い流れが縮れながら蟲や花瓣を浮べて流れてゐた。すると私の足は不意に辷つた。私は亂れた花の上へ仰向きに倒れた。冷たい草の葉がはツしと頬を打つた。雨が降るといつも私はそこで辷るのだ。
 格子の向ふで妻が身體を振つて笑つてゐた。私は馬鹿げた口を開けて着物を着返へるために家の中へ這入つた。
「どうも早や、參つた、參つた。」
「あなたの、あなたの。」さう云ふと妻は笑つたまま急に咳き出した。
「俺が惡いんぢやないぞ。花めが惡いんだ。」
「あなたが周章てるからよ。」
「俺は花を踏まないやうに氣をつけてやつたんだ。」
「あの格好つたらなかつたわ。」
 私は芝居の口調で、
「いやいや、」と云つた。
「もう一度辷つてらつしやいな。」
 私は默つてゐた。
「まるで新感覺よ。」
「生意氣ぬかすな。」
 私は光つた縁側で裸體になつた。病める妻にとつて、靜けさの中で良人の辷つた格好は何よりも興趣があつたに相違ない。初めの頃は私が辷ると妻の顏色も青くなつた。それがだんだんと平氣になり、第三段の形態は哄笑に變つて來た。私達は此の形態の變化を曳き摺つて此の家へ移つて來た。
「赤ちやんがほしいわ。」と、突然妻が云ひ出すことがある。
 さう云ひ出す頃になると、妻は何物よりも、ユーモラスな良人の辷つた格好から愛すべき風格を見附け出す。その次ぎの第四の形態は何か。私は次ぎに來る左樣なことを考へるものではないと考へる。
 次の日の朝雲は晴れた。私は起きると直ぐ葡萄棚の下へ行つて仰いでみた。葉の叢から洩れた一條の光りが鋭く眼を貫いた。私は顏を傾け變へた。露に濡れた葡萄の房が朝の空の中で克明な陰影を振りかざし、一粒づつ滿腔の光りを放つて靜まつてゐた。私は手を延ばすと一粒とつた。
「うまい。」
 床の上へ起き直つた妻が、
「私にもよ、私にもよ。」と云つて手を差し出した。
「喜べ。うまいぞ。」
 私は露で冷めたくなつた手に一房の葡萄を攫んで妻の床の傍へ持つていつた。
「あらあら、重いわね。」
「ベテレヘムの女ごらよ。ああ汝の髮は紫の葡萄のごとし。」
「もう直ぐ蟲がつくから、今とらないと駄目…

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