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芥川竜之介を哭す
あくたがわりゅうのすけをこくす
作品ID58577
著者佐藤 春夫
文字遣い旧字旧仮名
底本 「わが龍之介像」 有信堂
1959(昭和34)年9月15日
初出「中央公論 第九号」1927(昭和2)年9月1日
入力者佐伯伊織
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2019-03-01 / 2019-06-09
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 最後まで理智を友としたやうに見える芥川龍之介を弔ふためには、故人もこれを厭ふたところの感傷の癖をさけて、評論の形を以てこれを爲すことを、僕の友人の良き靈は宥してくれるだらうと思ふ。
「爲す者のみひとりこれを解す」これはニイチエの言葉であるが、僕はまだ一ぺんも自分を殺したものではない。だからこの友人のこの特別な死の消息については到底了解出來ないのは云ふまでもない。だから僕は彼を、ただ僕にはかう見えるといふことによつて結局僕自身をしか語らないだらう。さうして讀者は亦、讀者の好むがごとくにこれを讀むことが出來る。つまりは、ぐうたらで生き殘つてゐる人間の身勝手な言ひ草であるかも知れない。僕のよき友人であつた故人は、最近では僕の不作法を戯れに敢然性と呼んで、寛大にもそれを見逃してくれた。だから若しこの文中に、少しでも、期せずして彼の靈に禮を失するやうなことがあつたにしても、思ふに彼は微笑を以て宥恕してくれるだらう。
 人としてまた藝術家としての芥川龍之介にとつて、最も致命的――嗟、この言葉こそ今は最も文字通りに讀まなければならなくなつたが――なものは、彼が多くの場合、否、殆どいつも容易に胸襟を開くことの出來ない人であつたといふ一點である。彼は端的に自己を語り出すことには堪えられない人であつた。やさしい心情と複雜な生活とを藏しながら一切これを洩し得ないのである。さうして彼も亦自己韜晦者であつた。彼は最も廻りくどい方法でただ彼自身を表現した。この事實は彼の最後の手記に於てもこれを見出すことが出來る。彼のやうな性格にとつてはあらゆる種類の自己告白は野卑極まる惡趣味に見えたに違ひない。「エトルリヤの花瓶」の作者を彼が熱愛したのは、さもあるべきことであつた。彼は或る時、昂然として、人々に恥を曝すために裸になつてそれによつて喝采されるなどは眞平だといふ意味のことを書いた。又、彼は或る時、僕の面前で「僕は見え坊だから。見え坊だから、……」と連呼した。彼の生活と作品とを開くべき鍵が一つ茲にあるやうな氣がする。
 僕は嘗つて、作家としての彼を評して久米正雄の所謂「流露感」に乏しい事を指摘し、また彼は窮窟なチョッキを着てゐるとも云つた覺えがある。この僕の評に對して彼は「さう言へば、佐藤はまたあまり浴衣がけだから」と或る人に答へたといふことを、僕は間接に聞いた。
 今年の一月中旬であつた。或る夕刻、飄然と僕を訪れた彼は、その日の午後五時半から、翌日の午前三時近くまで僕の家に居た。十年間の交遊の間で僕が最も密接に彼に觸れ得たのはこの一夜であつた。彼は彼として出來るだけ裸體に近くなつて彼の生涯と藝術とについて僕に語つた。彼の言葉は八分どほり抽象的であつたが、それによつて僕は彼の心の中には黒い何者かが蹲つてゐるのを知つた。しかもその何ものかは表現することを禁じられてゐるがために、その存在の色を…

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