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梅雨
つゆ
作品ID58583
著者横光 利一
文字遣い旧字旧仮名
底本 「定本 横光利一全集 第十三卷」 河出書房新社
1982(昭和57)年7月30日
初出「大陸 第二卷第七號」1939(昭和14)年7月1日
入力者mitocho
校正者押井徳馬
公開 / 更新2018-03-17 / 2018-02-25
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 去年の梅雨には曇天が毎日續いた。重苦しい濕氣のなかで私は毎日ねつとりとした汗をかき、苦しんだ。思へば毎年その頃になつて筆の動いた試しがないが、この年の梅雨の日は或る日どこからか逃げてきたらしい鶯が庭の繁みのなかで鳴きはじめた。梢をのぞいても姿は見られなかつたが、聲だけは塀の周圍を鳴き續けてやまなかつた。これが毎日、同じ處で鳴き續け、同じ方向にいつも舞つてゐるのが感じられると、頭はその聲を中心に急に動き出したのを覺えてゐる。
 その頃、北海道行きの話が出て川端君とふたりで奧羽本線を青森の方へと行き淺蟲で一泊した。車中キリストの話が出た中で、その前月のある雜誌に青森縣の八戸で崇神天皇の時代、キリストが八戸に來て此處に住ひ、ここで死し、墓場さへこの地にあるといふ記事を讀み、その荒唐無稽さに驚き乍らも、このやうな夢をもたねば生きられなくなつた現代人の頭に就いて興味をもつたことを話しあつてゐるとちやうどふたりは八戸の手前まで來かかつた。八戸はここで降りるのだといふ驛で、ここには家内の實家があるのだと微笑する川端君と共に、驛の周圍の陰鬱な雨空を見廻したが、私にはそのキリストの荒唐無稽な説も鶯の聲のやうに節面白く頭に生きて、思はずにそのやうな説を説く人達の頭も、とりすがつた夢の美しさのやうに感じられた。
 淺蟲へ着いた翌朝、驛から汽車に乘らうとすると待合室に充滿してゐる小學生達の遠足姿に混り、小使らしい黒い詰襟の老人が辨當を持つてベンチに腰をおろしてゐる姿をふと眺めた。すると、何とその顏はキリストそつくりの顏である。
「君あれ見給へ、キリストそつくりだ。」
 と思はず私が云ふと、
「ほんに、似てるなあ。」
 と川端君は云ひつつ手にしたカメラを上げて、そのキリストを寫さうとしかけたが、
「どうも氣の毒だから、やめよう。」と云ふと、寫さずそのままカメラをおろした。そしてまた、
「ふしぎだねえ。」
 と云ふ。あのときもしそのまま寫眞に撮つておいて今みたなら、或いは、人は辨當箱を持つたキリストだと思ふかも知れない。それほどによく似た顏である。
 人間は荒唐無稽なものでも考へてをれば、だんだんその無稽が事實となつてゆくといふ説があるが、狂氣に近い夢も現實の一部として誰かの頭のなかで生き續けてゐたのであつてみれば、八戸でキリストが死んだといふ説も、重苦しい梅雨の曇天の下では美しいひとつの現實の姿とならぬとも限らない。いや、現に八戸とあまりへだてぬ淺蟲の驛で、あやふく私もまたキリストの夢を見たのである。川端君もまたさうだ。
 津輕を渡つてひとたび北海道へ行くと、この地の傳統はキリスト教だと明瞭に感じられる。異境に行つた思ひである。凾館のトラピストをはじめとして、鐵道の沿線はあたかもキリストを搬んで廻つてゐるかのやうな臭ひを立て、私には南ドイツやアドリヤテイツクの海の風景がしきりに浮ん…

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