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小泉八雲に就てのノート
こいずみやくもについてのノート
作品ID58592
著者佐藤 春夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 佐藤春夫全集 第20巻」 臨川書店
1999(平成11)年1月10日
初出「文芸研究 第一巻第四号(小泉八雲号)」1928(昭和3)年9月1日
入力者えんどう豆
校正者津村田悟
公開 / 更新2018-06-27 / 2018-05-27
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 小泉八雲全集を読んで一番感心することは、この詩人が同時にえらい批評家だといふ一事である。正岡子規が一面に於て大批評家を兼ねてゐたのと好一対である。この事は一見意外のやうでもあるけれども、別に不思議ではない。何者であらうとも一家をなす程の人には一家の識見は厳として具はつてゐるものである。それだけの識見を持てないやうな人は、たとひ多少才能があつたにしても才能は仕事するごとに磨減してしまつて決して大をなすものではない。
 八雲は誰も知るとほり自分で自分を教育して来た人である。即ち八雲をあれだけに仕上げたのは彼自身のなかにいい教師がゐたので、そのいい教師の重なるものはその批評的な一面であつたと僕は考へるのである。八雲は彼のなした学校の講義のなかでこんな事を言つてゐる――警戒すべき事は、独力で勉強する人間の陥入りやすい弊害はプロヴィンシヤリズムである云々(プロヴィンシヤリズムといふ言葉に八雲は適当な註訳を加へてゐたが、僕は忘れてしまつたけれども、簡単に言へばまあ所謂投書家気質とでも考へてよからう。)八雲はその警戒をいつも彼自身に加へてゐたに違ひない。
 大学の講師としての八雲は、決して同じ講義を二度としなかつたといふ事であるが、これだけを聞いても彼の勤勉な学徒であつた事が知られる。ウイリヤム・ブレエクの事を二度話してゐるが、その二つの講義は同一の題目をまるで別の見地から論じたものである。
 八雲は異国の青年学生たちに、世界の最近の文学的風潮を伝へながらその題目を通して文学の本質に触れようと試みてゐる。これは実に聡明な仕方である。ブレエクにしろボオドレールにしろ、ゴオチエにしろロセツチにしろ、スインバアンにしろ、ブラウニングにしろ、今日でこそ一般的の名になつてゐるが、当時にあつては日本では無論のこと英米の読書界では決してさう普遍的なものではなかつたらしい。しかも八雲はそれを捉へて適切な評価を下してゐる。すべての人々からその美点を挙げて学ぶべき点を数へてゐるのも注目すべきことである。学生に対する講義であつて純粋の文学批評ではないからでもあらうけれども、そこに彼自身の人柄も心懸も自づと現はれてゐる。しかし自分の信ずるところでは、八雲はもし必要のある場合には俗悪な文学に対しては敢然たる戦もする人に違ない。しかし、さういふ題目に就ては彼は最初から択ばなかつたのだ。択ぶ必要がなかつたのだ。それは前述の如く講義の性質から言つて自然な事である。たつた一つ八雲は、ホイツトマンに対してだけは賛成の意を表はしてゐない。これは八雲を研究するのには面白いヒントになる点だと思ふけれども、僕は無学にもホイツトマンを充分に知らないからここでは何も言へない。しかしどちらかと言へば世紀末的文学の匂を愛してゐた八雲だから、さうして内在的な世界に目を向けてゐた八雲だから、気質から言へば無論ホイツトマンとは…

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