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風蕭々
かぜしょうしょう
作品ID58614
著者尾崎 士郎
文字遣い新字新仮名
底本 「早稲田大学」 岩波現代文庫、岩波書店
2015(平成27)年1月16日
初出「早稻田大學」文藝春秋新社、1953(昭和28)年10月20日
入力者フクポー
校正者孝奈花
公開 / 更新2022-10-18 / 2022-09-26
長さの目安約 59 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 月のかげが低い屋根に落ちている。場所は博多、中洲の水茶屋、常盤館の裏門の前で俥のとまる音がした。――入ってきたのは洗いざらしの白い薩摩絣を着ながしにした長身肥大の杉山茂丸である。杉山は、右が納屋、左が薪の束の堆高く積んである狭い通路を大股に歩いて植込のふかい中庭の前へ出た。
 壊れかかった柴折戸をあけると、池の水蓮に灯かげがぼうと映っている。杉山は竹垣にそって庭石づたいに池をひと廻りして大きい石灯籠のかげになっている茶室の横へ出た。片手で松の幹を抱え、身体を斜めにして池の正面にある広間を透かすように眺めると通常「豪傑部屋」と呼ばれている宴会専用のほそ長い部屋は、襖も障子もあけ放しにされて、そこから真正面に見える欄間の上には、何時も見馴れている山陽外史の、「雲耶山耶呉耶越」――と達筆にまかせて伸び放題に書きなぐった天草夜泊の詩がうすい翳を刻んでいる。新任の福岡県令安場保和をかこむ実業家たちの小宴であった。安場は玄洋社とも多少のつながりがある。元を洗えば、その頃元老院議官であった安場を説いて、福岡県知事たらしめようとしたのも、杉山であるし、「明治の聖代に筑前の梁山泊なぞに誘拐されてたまるものか」――と一蹴する安場を追窮して、「いや、明治の聖代に藩閥高給のお鬚の塵を払うのと青年子弟の高邁な気風の中で日を過すのとどっちがいい」と、大言壮語して磊落豪宕をもって聞えた安場にひと泡吹かせたのも白面空手の一書生である杉山であった。彼は安場を説得したばかりではない。親分である山田顕義に一身の運命を托しているから相談の上で返事しようと、最後の逃口上を打った安場の言葉をしっかりとおさえてすぐひらき直った。「――よろしい、然らば山田閣下のことはわが輩がひきうけました。山田閣下に一身を托されるのは少々心ぼそいが、人物払底の今日であってみれば九州統一を図るにはどうしても先生をさらってゆくよりほかに道はない、こうなればわが輩も命がけです、やるところまではやりますぞ」。
 杉山はその足ですぐ後藤象次郎を訪ね、無理矢理に紹介状をもらって山田顕義を自邸に訪れすぐ膝詰談判をはじめたのである。剛愎な山田が杉山の法螺に吹きまくられたと解釈するのは必ずしも穏当でないかも知れぬが、しかしその安場が福岡県令となって赴任してきたのはそれから一ト月経つか経たぬうちであった。してみると杉山が投じた一石が多少の効果を奏したことを否定するわけにはゆくまい。
 宴席には人の姿が入りみだれ、びっこをひいた安場の顔は何処にあるのかわからなかったが、しいんと大気をひきしめるようにひびいてくる博多節の音じめさえ、さすがに浪人や書生たちの酒宴の席に聴くボロ三味線とはちがっておのずから一つの格を示している。やっているな、――と思うと、杉山の顔にはかくしきれぬ微笑がうかんできた。兎にも角にも安場を此処まで引きずりだしてきた…

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