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趣味の修養
しゅみのしゅうよう |
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作品ID | 58663 |
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著者 | 会津 八一 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「會津八一全集 第七卷」 中央公論社 1982(昭和57)年4月25日 |
初出 | 「興風」1922(大正11)年8月 |
入力者 | フクポー |
校正者 | 杉浦鳥見 |
公開 / 更新 | 2018-11-21 / 2018-10-24 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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何處までも/\芋畑や雜木林ばかりで退屈な汽車の窓に、小ぢんまりとした木立が見えて、それが近づくにつれて庭には草花が綺麗に咲かせてあつて、その中に白い鷄が遊んで居る、家の造りも面白い、こんな時に、飛ぶやうに通り過ぎて行く旅人の目にも、先づ床しいものは其家の主人である。また裏長屋の軒竝を歩いて居るうちに、不圖ある家の窓から床の間の一軸、それが名も無い畫家の作であるかも知れぬ、その前に活けてある花瓶が市價の乏しいものであつても、無暗に其家の主人を懷しがらせることがある。吾々が人を懷かしく思ふやうに人がまた吾々を懷かしく思ふこともあるかもしれぬ。私はこれが面白いことだと思ふ。しかし世の中には、誰に見せても少しも床しくも懷しくも思はれぬ人もあり、また誰を見ても床しくも感じない人もある。
一體或る種類の人々が吾々の目に床しく見えるのは第一に其人にそれだけの趣味が備つてゐるからだ。しかしそれにしても吾々自身に、人を床しく思ふだけの趣味が無ければならぬ。磁石でなければ鐵片を引きつけない。鐵片でなければ磁石に吸ひつかない。たゞの石ころのやうな人間にはなりたくないものである。
吾々が世の中を行くのに、必ずしも名利を一生の目的としなくとも、路は名利の中をうねる。その間に起るいろ/\の問題にぶつかつてそれを切り拔けて進むだけの覺悟が無くてはならぬ。人間がたゞ蒸氣汽罐のやうに強健で砲彈のやうに勇氣があつても、それは羨むべきではない。道徳も、藝術も、宗教も戀愛も此一面が備つてこそ生れ出るのだ。しかしまた、人間として此一面を備へただけでは、所謂文弱に傾いて仕舞ふ。自分の枝に咲いた美しい大きい花を支へるだけの力がなくて、泥に曳きづる蔓草のやうな生活も決して羨ましいものではない。全體として完全な人格者には、この兩面ともに大切である。青年の頃は修養の時代だ、趣味の修養を忘れてはならぬ。
日本人を全體として見ると、昔から外國人からは懷かしく思はれて來た。またこちらからも外國人を懷かしがつて來た。決して殺風景な國民ではない。君子の國、美術の國、愛らしい國と、いろ/\に外國人から呼びなされて居ると同時に、道徳も美術も文學も宗教も、殆ど全的の影響を外國から受けるのが日本人の習はしであつた。つまり趣味的の修養にかけては、世界の一方で稀な發達を遂げて居たといつてもよからう。
しかし今日は新らしい文明の利器や設備が急速にどし/\輸入せられ、發明せられ、社會の新らしい組織、制度さへ要望せられて來る世の中である。先づ以て滔々たる物質主義の弊を救ふ爲めに趣味の修養が大切である。ところが時勢の變轉が急速な爲めに、老人と中年、中年と青年、殆ど世代の差とともに甚だしい趣味の相違を來して仕舞つたかの風があつて、茶の湯、生花に固執する老人とダンス、洋畫に狂奔する青年の間には隔絶した距離が出來て居る。それは止むを得…