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大学とその総長
だいがくとそのそうちょう
作品ID58666
著者会津 八一
文字遣い旧字旧仮名
底本 「會津八一全集 第七卷」 中央公論社
1982(昭和57)年4月25日
初出「夕刊ニイガタ」1948(昭和23)年5月15日
入力者フクポー
校正者杉浦鳥見
公開 / 更新2019-11-21 / 2019-10-28
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 綜合大學を作るのに、まづもつて、何よりも大切なのは、よき總長を得ることだといふやうな意見を、最近何處かで見たが、これはとんでもない大まちがひの意見で、私は、びつくりしてしまつた。大學を作るには、先日も述べたやうに何より大切なのは、よき教授を見つけて來ることで、總長は、その教授團の中から選擧で出來るものだ。
 國立大學は、もともと、政府が建てたもので、その目的が、學問の研究にあるのは、いふまでもないが、さしあたつて明治の新政府に採用すべき役人の養成といふ使命があつた。この使命は、初期には、ことに強かつた。そこで官僚大學といふ名實を備へることになつた。けれども、いくつかの部門に分れ、それぞれの部長があつたので、その上に總長があつた。その總長は、最初は官から任命した。恐らく今でも、同じことであらうが、いつの頃からか、教授團から選擧して多數で當選した部長の中から選擧して任命されることになつてゐる。
 慶應大學は、もとは福澤さん、早稻田は大隈さんの私立であつたから、西郷さんの私學校ほどではないが、私塾的の性質が強かつた。けれども、どちらも、今ではいくつかの部門を持つ綜合大學で、總長は、教授團を基礎にした選擧で決めてゐる。明治大學でも、日本大學でも、どこでも同じことであらう。
 これらの國立、私立の大學の總長は、その大學の首班の位置に居つて、外に對しては代表者となり、内においては行政をつかさどるが、學者として教授として、めいめいに專門があるから、その專門の講義を擔任しながら、總長を引き受けて行くのが本筋で、教育行政の專門家とか、總長業者といふやうな人たちが、一手に、永久的に、この位置を占據してしまふべきものではない。
 選擧で推されて總長になつても任期がきまつてゐるから、その御手ぎは次第で、一度きりになる人もあらうし、何度も何度も重任する人もあらう。ちよいと外から見ると、大變名譽のやうでも、ほんとに學問を天職と信じてゐる人なら、名譽どころか迷惑がるにちがひない。けれども皆でこれを推す。しかたがないから、自分の大學のためだといふので引き受ける。といつたやうな場合に、ほんとにいい總長が出來る。けれども專門の學者として立派な人が、必ず行政的手腕があると限つたものでない。政治や行政のことを嫌ひだからこそ、忠實な專門の學者にもなれた人が多いのであらう。
 が、その中で、いくらかでも、さうした方に技倆のある人を、皆が目をつけてゐて、それを選んで總長にする。選ばれたからには引き受けて、皆のためにやる。これでいいのだ。それよりしかたがない。だから事務的のことは下に事務局があつてその方を引き受ければよろしい。いやしくも綜合大學の總長たるものは、自分自身が、ほんとに學を好む學者で、學問の尊さをよく知つてそれを信じてゐる人でなければならない。そしてその學問の尊さを全大學の學生に、心から吹き…

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