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天成の詩人
てんせいのしじん |
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作品ID | 58682 |
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著者 | 佐藤 春夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 佐藤春夫全集 第25巻」 臨川書店 2000(平成12)年6月10日 |
初出 | 「現代日本文学全集 第27巻付録月報35」筑摩書房、1955(昭和30)年8月15日 |
入力者 | えんどう豆 |
校正者 | 夏生ぐみ |
公開 / 更新 | 2018-03-26 / 2018-02-25 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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僕に「詩人馬鹿」といふ言葉がある。詩人は通例世俗人としては全くの無能力者であるが、その為人は純粋無垢だといふのである。天はその無垢を保護するつもりで詩人には世俗的な才能を与へなかつたのだといふ説である。「詩は別才也」といふ古人の語も同じ意であらうか。これ等の考へを如実に示す人として、自分はいつも室生犀星君を第一に思ひ出す。即ち自分の考へてゐる天成の詩人の典型だといふ事になる。
自から能なしだと云ふ彼は、能不能の問題ではなく文明といふ生活形態とは全く同調できない野生児なのである。詩人の天職は人間自らが手づくりのロボット化しようとしてゐる人間社会にあつて人間本然の原始的な創造主の創造そのままのものを保存するにあると考へてゐる自分にとつては、この天成の詩人は当然この上なく有難い存在と思はれる。
この天成の詩人は、詩才以外には、詩人として有害無用な何ものをも持つてゐない。世才は勿論学才もない。詩的教養だつてさう沢山は持つてゐるやうには思へない。彼にとつては、そんなものなどはみな糞くらへであらう。彼は持つて生れた詩魂の呻きをそのままに彼の言葉で吐き出すだけである。
いつぞや芥川が彼の口真似で彼の句の幾つかを紹介して、
鯛の骨たたみに拾ふ夜寒かな
どうぢや。といふ風につづけさまに四五句、どうぢやを重ねた上で口を衝いて出るのがみな秀句だから、えらい奴ぢや。
と驚歎してゐたのをおぼえてゐる。学才と世才とに教養を加へてすぐれた批評家で、また詩の最上の愛好者ではあつても、決して天成の詩人ではなかつた芥川が犀星の野生的な詩魂に驚歎したのは当然の事で、芥川の詩を解することの深かつたのを証するものであらう。この二人が互に自己の持たない美質を認め合つて莫逆の交を結んだのも亦芸苑の一話柄として伝ふべきであらう。
天成の詩人たる野生児は人間よりもむしろ彼と同じく原始的な存在である木石のたぐひに対して人間以上の親愛の情を抱いてゐる。彼は切断される枝から樹木の声なき叫びを聞いてこれをいたはりいとほしむ。彼が造園の事を愛するのももの言はぬ草や木や石さては陶器の類から人間の言葉以上に意味深いなぐさめの言葉を聞き出して、野生のままで文明界にゐる孤独を慰めるのであらう。
四十年前、僕がはじめて故人広川松五郎の下宿で彼を見た頃には、彼は夜毎に泥酔して喧嘩の種を蒔きつつ仲間の誰彼をダラ(アホダラの略?)と罵りわめいてゐたものである。その頃の精悍な野生児の面影は一見温雅な彼の詩の奥底にも地熱となつてひそんでゐるのである。
いつぞや一度彼の軽井沢の家に行つて、その美しい苔庭に感心したものであつた。近く自然にある山裾の山林の一角なる目測七八十坪(?)ばかりの平な前庭には特に植ゑた一樹とてもなく深々と茂つて玉突台のやうに平に青い苔がみづみづしく目にさはやかなのを、時々は外国人も見にくると彼もさす…