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風波の日
かざなみのひ
作品ID58712
著者前田 夕暮
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆37 風」 作品社
1985(昭和60)年11月25日
入力者浦山敦子
校正者noriko saito
公開 / 更新2024-04-20 / 2024-04-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 今朝、伊東特有の西風が天城から激しく吹き颪して、海には風波が一面に立つてゐる。その風波の海を隔てた遥か東北の方向に、大山丹沢の連山がほの赤く日に温められて、煙波の間に縹渺としてゐる。
 浜に出してみると、風が蓬々として海の方へ吹いてゐる。帽子も何も吹きとばされさうだ。寒さは身内に浸透する。海は日蔭つて暗くなる。
 私の子供は二人とも元気で渚をぴちぴちとんで歩いた。私は浜に引きあげてある船の蔭に蹲つて海を見てゐた。
 子供は靴をびしょびしょに[#「びしょびしょに」はママ]波に濡して、黒い砂の渚を一生懸命に両手で掘り下げてゐる。一二尺も掘り下げると底から潮が湧いてくる。これが彼等には不思議な喜びであつた。
 彼等には単純な喜びがある。そして、子供達はいつまでもその単純な歓びを掘り下げて行くのである。
 子供達から十間程はなれた浜には、万次郎丸といふ二三十噸の鮪船を海に出さうとして、十五六人の漁士達が太綱に縋つて、寄曳いてゐる。ゑいや、ゑいや、と掛け声ばかりはしても、船は左右に揺れるばかりで、一寸でも前に出ようとはしない。船は新造で、腹が青く塗られてゐる。そして赤い旗が数本立てられてゐた。はたはたと鳴る音が羽搏きのやうだ。
 私は子供達の単純な遊戯と、漁士達の単純な労作とを静かに眺めてゐた。船は何時波に浮ぶとも見えなかつた。
 其処へ、ぼう、ぼうといふ、野太い汽笛を響かせて、船体の黒い一本マストの汽船が沖合から這入つて来た。下田通ひの○○丸である。これは東京湾汽船の配船で、熱海に鉄道が開通する迄は国府津小田原にも通つてゐた。が、その後鉄道開通のためにその航路を短縮せられて、熱海伊東下田間が僅かに航海してゐる。それさへ最近伊東熱海間に新道路が開鑿せられて自動車が開通したため、経営が困難になつて、熱海伊東間は自然に廃止になる運命だときいてゐる。私はこの話をきいて何だか寂しくなつた。この前来た時は自動車に乗らず、時間のあてにならぬ此船にわざわざ乗つて熱海に行つたものであつた。で、最近ただ一度だけしか乗らない船ではあるが、親しさは乗合自動車の比ではない。
 海が陸に征服せられる時が来た。
 下田へは近く鉄道が開通せられるといふことを聞いてゐる。でなくとも新道路が既に伊東から小一里も開鑿せられて、自動車がその道のある限り通つてゐる。
 全く海は陸に威嚇せられてゐる。
 私は否み難い寂寥を感じた。



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