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![]() そうせいえんかくしりょう |
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作品ID | 58766 |
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著者 | 柳田 国男 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本柳田國男集 第十五巻」 筑摩書房 1963(昭和38)年6月25日 |
初出 | 「宗教研究新十一卷五號」1934(昭和9)年9月 |
入力者 | フクポー |
校正者 | 津村田悟 |
公開 / 更新 | 2025-07-31 / 2025-07-29 |
長さの目安 | 約 48 ページ(500字/頁で計算) |
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緒言
前代日本人の後生觀念、乃至亡靈の去來に關する思想については、記録文獻の偏倚と乏少の爲に、從來可なり大雜把な、甲乙兩立し得ない推斷を許して居たが、是には未だ試みられざる一つの方法が殘つて居た。我々の現在なほ實行して居る慣習の中には、少なくとも一部は新たに制定し又は模倣したので無いものがまじつて居る筈であるが、それを仔細に考察し比較して、それ/″\の由來を尋ねるだけの勞苦を、避けて就かうとする者が無かつたのである。自分は幾度かその弱點を指摘した責任上、終に自ら斯くの如き機械的の整理事務に、當らなければならぬはめになつた。それには近年の地方同志が、各[#挿絵]その地の事實を精細に報告して或程度までの綜合を可能ならしめた懇切なる援助に謝さなければならぬのである。是等の資料のうち、最も有力なるものは盆年越の魂祭行事であるが、この方は稍[#挿絵]目鼻が付きかけて居る。無論明瞭疑無き證據が擧がつたといふのでは無いが、とにかくに民間佛教の導師たちが、訓へ又説いて居る樣には、人はホトケサマなるものを考へて居らず、依然として祖靈は故郷の娑婆を訪問して居た所を見ると、國内普通の信仰に於ては後生は別に有つたといふこと迄は言へさうである。葬制の方面には複雜な儀式ばかり多く、その背後に在るものは幽かにしか顏を出して居らぬから、まだ/\反對の説にも都合のよい事實が取上げられる樣に見えるが、それでも細かに注意をして居るうちには、僧侶の管轄し得ない問題の、弘く國中に共通して居ることだけは判つて來るであらう。結論は學者も戒愼して、さう早急に下さうとせぬ方がよいが、問題だけは囘避せぬやうにしなければならぬ。さうして自分はたゞその問題を算へ上げようとして居るのである。この以外にも更に痛切なるものが、續々として現はれて來るかも知れぬが、現在知られて居る一部分の事實からは、是だけのものが先づ注意せられるすべてゞある。大體のところ帝國の舊版圖の、面積二十分一ほどの土地の最近の實況が、ほゞ半分ばかり報告せられて居るものと見ればよからう。願はくは此問題の掲出によつて、それら殘りの地域の向學心を刺戟し、次々是と一致し又は背反する新事實が、今後の學徒の利用に供せられるやうに、この小さな勞苦を役立たせたいものである。私は是まで婚姻の風習、又は年中行事などにも同じ方法を以て、將來の調査の標目を列記して居る。趣旨は全く學問の山口を開けることに在る。是を以て直ちに全貌の發見の如く、誤解する人があつたらその人は不幸な學者である。しかも是だけの事實すらも知らないで、何か判つた樣な氣持をもつ者がもし有つたら、それはもう一段と氣の毒な人であることも亦確かである。
一 喪の始め
死者の肉親が、いつから喪に入るかはまだ明らかになつて居ない。一旦呼吸が切れてもそれだけではまだ死んだとは解し得られないからである。醫…