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葬制の沿革について
そうせいのえんかくについて
作品ID58768
著者柳田 国男
文字遣い旧字旧仮名
底本 「定本柳田國男集 第十五巻」 筑摩書房
1963(昭和38)年6月25日
初出「人類學雜誌四十四卷六號」1929(昭和4)年6月15日
入力者フクポー
校正者津村田悟
公開 / 更新2025-05-17 / 2025-05-11
長さの目安約 39 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 會員としての我々の經驗から言ふと、學會が榮えるといふことは、必ずしも精透の研究を以て、後代の目標を打立てる迄の重要論文が、連續して出現することを意味しては居なかつたやうである。理想は固よりそこに在るべきであるが、それには時期もあり又外部の機會を伴なはなければならぬ。今少しく卑近なる要件は、會員が單なる讀者となり又は普通の豫約者となつてしまはぬことで、共同の興味が或一隅に傾注せず、寧ろ幾分か雜駁で且つやゝ移り氣に見える位に、毎月の題目が變化して行くやうな際が、實は次の進出を孕んだ最も活氣ある時代なのである。求めて此状態を招致することも、決して會報の墮落といふことは出來ない。現にこの會でも過去に幾度と無く、さういふ傾向を呈したことがあり、今から囘顧するとその頃の方が會員らしい會員が多かつた。人類學の前面が本來は弘いものであること、從つて偶然に又散漫に我々が抱いて居る個々の小さな疑問の中にも、まだ幾らでも學問上の疑問があり得るといふことを、出來るだけ意外な實例に由つて心付かせて貰ふことは、所謂追隨を許さぬといふ學者の深入した指導よりも、全體の效果は時として大きかつたのである。
 近年の日本の人類學が、非常に片寄つた發達をしたのには原因があつた。或一局面に優秀なる學徒が輩出したといふ以外に、此學問としては特に大切なる現存事象の集録が、其他の部分に於ては甚だ振はず、一方には探險發掘等の事業の年と共に盛んなるに對して、この方では單なる好奇心の地表採訪すらも、段々に流行おくれとならうとして居るのである。人間生活の觀測とその直接の記録とより他には、何の手段も無い學問が、成長し得なかつたのは是非も無いことで、計畫ある公けの調査が今後に於ても尚望み難く、しかも各部各年代の考察が、互ひに相助けて進まなければ、末には折角の所謂史前學の孤立さへも、心細くなつて來るであらうことを考へると、時は稍[#挿絵]おくれて居るのかも知らぬが、今からでもまだ何とか方法を立てる必要があるやうに思ふ。自分なども從來は發見が餘りに少なく、又たま/\あつても其發見が餘りに小さいのに恥ぢて、幾分か肩を諸先進と比べることを差控へる傾きがあつたが、是はよくない流行にかぶれて居たものだといふことに心付いた。今度の五百號の好記念の日を始にして、又僅かづゝの問題なりとも提出して、同志の會員諸君がどの程度に、又如何なる種類の題目に興味をもち、且つ新しい資料と判斷とを以て、應援してくれられるかを試みて見ようと思ふ。



 最初に私が葬制の沿革などを考へて見ようとするのは、通例何れの民族でも是が最も主要なる文化の一特徴と目せられて居るにも拘らず、日本にはまだ明らめられざる不審が幾つもあるからである。近年編述せられた郡誌類は數多いものであるが、一樣に住民の生活變遷を誌すことが疎であるといふ中にも、殊に此項目には力…

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