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![]() どうじとかみ |
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作品ID | 58771 |
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著者 | 柳田 国男 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本柳田國男集 第十五巻」 筑摩書房 1963(昭和38)年6月25日 |
初出 | 「大阪朝日新聞」1925(大正14)年5月18日 |
入力者 | フクポー |
校正者 | 津村田悟 |
公開 / 更新 | 2025-04-17 / 2025-04-15 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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プエブロを家とする赤色土人の赤ん坊と、金字塔の底に眠る埃及のミイラとは、同じ人間でも端と端との相異であるが、その姿が不思議なほどよく似てゐる。しかも雙方ともに自身には考へがなくて、これを愛するものがかういふ格好に、その體を包んでやるのである。かくの如き共通は偶然か、はたまた隱れたる理由があるのか。それを研究して見ようとする勇敢な學者が、あるか否かも自分はまだ知らぬが、兎に角に小兒の世界にはまだ神祕が遺つてゐて、稀にちらりとその片端を見せることが、日本などにもあるやうに思ふ。そんなことを今自分は考へてゐるのである。
去年ある友人が與那國の島から、携へて還つて來た寫眞の中に、母が白い麻のクミヤーと名づくる單衣で、小兒を脊に負ふ風俗を見せたものがあつた。五六尺ばかりの二布を、半分縫ひ合せて脊筋とし、前は離れ/″\にして、これをたすきに掛けると、我々のおぶひ帶のやうに十文字に引締る。至つて重寶且つ便利なる品である。その製作は簡單で、頗る巫女などの用ゐるチハヤといふものに似てゐる。南の島々でも白色は神用であつて、常人は忌みてこれを使はず、またこの類の衣は祭に奉仕する女性以外に、着ることがないやうに思ふ。
さうすると小兒ばかりが、かういふ待遇を受けることは、よつぽど不思議であるが、よく氣をつけて見ると我々の中にも、これと似た習ひがまだかすかに殘つてゐるのである。關東の方では子供を負ふはんてんに、平袖の袖があるけれども、西の方では袖なしが普通であつて、綿入れではあるが形状は著しく、右申すクミヤーに近い上に、今度の旅行で豐後伊豫などで見たものは、春の季節であるのに白地のものが多かつた。遠くからでも眼につくのは、かすりでも染模樣でも、子供を負うたもりばんてんの、白つぽい袖なしであつた。襟やおくみがついて別物のやうにはなつたが、なほ暗々裡に色の好みが、古い風習を傳へてゐるのではないかと、考へられたのである。
それから次に考へ及ぶことは、中世の武人が戰場に着て出た、ホロといふものゝ起原である。母の衣と書くところから、昔唐土の或國になどと、事々しい由來談を軍學者たちは説いたが、ちつとも根據のないことであつた。古い畫にあるのと合致するから、遊就館などに出て居るものが、古くからの形かと思ふ。さうすれば疑ふところもなく、裳すなはち婦人の腰卷である。腰卷を魔除けとする思想の、今一つ前に溯つて、何か母の衣が子を保護するといふ信仰があつたのでは無いか。沖繩ではひだの多い女の裳を、カヽンと呼んでゐる。ハカマといふ語と、本が一つではないかといはれてゐる。今日の沖繩婦人はもうこれを使用せぬが、しかも生れ兒はそのカヽンを以て包むのみならず、祖母その他の老女が小兒に名をつける時には、儀式として頭からカヽンを被つて出ることになつてゐる。恐らくはこれに類似する風習が内地にもあつて、東國の勇士たちまで…