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![]() にがてのはなし |
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作品ID | 58774 |
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著者 | 柳田 国男 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本柳田國男集 第十五巻」 筑摩書房 1963(昭和38)年6月25日 |
初出 | 「民間傳承 八卷五號」1942(昭和17)年9月 |
入力者 | フクポー |
校正者 | 津村田悟 |
公開 / 更新 | 2024-11-18 / 2024-11-17 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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苦手といふ言葉の用ゐ方が、東京では此頃變つて來て居るやうである。たとへば酒好きが、牡丹餅は僕にはニガテだと謂つたり、又は我まゝ息子が伯父さんはニガテだなどと謂ふのは、單に「是ばかりは閉口」といふやうな意味で、大抵はどうしてニガテなのかを知らずに、たゞ人がさういふからといふだけで使つて居る。地方には全くこの單語の無いところ、又は新たに都會から學んで行つたところも有らうが、もしも古くから使はれる土地があるとすれば、きつとちがつた意味をもつて居ることゝ思ふ。試みに誰か年を取つた人に尋ねて見てもらひたいものである。
別にわざ/\古い用法に復歸する必要も無いが、言葉は知らぬうちに誠にたわいも無く、中味をかへてしまふものだといふことを、心づくことは何かの參考になる。さうして少なくともこの一語の關する限り、是から聽いたり讀んだりする時に、注意と興味とが多くなるであらう。私の記憶が誤らぬならば、ニガテはもと碁將棋球突きなどの勝負に就て、主として用ゐられて居た時代があつた。本當は自分も弱いのでは無いが、不思議にあの男だけにはよく負ける。どうも彼は私にはニガ手だ。斯ういふ風によく我々は使つて居たのである。外國でも同樣らしいが、勝負事の言葉はよく應用せられるもので、ダメとか岡目八目とかいふ言葉は、碁など打たない人までも今はよく使つて居る。ニガテも多分その一つであらうが、勿論そこが最初だつたら、斯んな言葉は生れないのである。
他の多くの人には相應な勁敵である者が、奇妙に或一人だけには頭が揚がらず、いつでもきまつた樣に押へ付けられるといふ場合、その特別の優勢をもつ者をニガテと謂つたのは蝮捕りであつた。まむしは現實に手を以て押へるのだから、恐らくは此方が今一つ前の用法であらう。蝮捕りのニガテは蝮を怖れず、手を出しても咬まれず、或は又是に逢ふと蝮は動けなくなつて、安々とつかまるとまで信ぜられて居る。どこまでが眞實か、まだ檢して見たことは無いが、斯ういふ能力を具へた人は何百人に一人といふほど少なく、何か其手には特徴が有るやうに言はれて居る。たとへば蝮指と謂つて、手の指の端の關節だけを曲げて、次の節を突き張ることが出來る。中指一本位なら誰でもするが、蝮指の人は五本揃へて熊手などのやうに、たやすく上だけを屈められる。或は又何腕とか謂つて、掌を下に突いたまゝで、腕を百八十度以上も[#挿絵]轉することが出來るなどといふ。是なども荒仕事に強ばつてしまつた手で無ければ、誰にでも出來さうなことであり、現に白状すれば自分なども其一人だつたのだが、それだけではまだ蝮を試みるほどの自信も起らず、又そんな機會も無かつたのである。
注意すべきことには、この苦手の能力はソンを引く、即ち遺傳するものと信ぜられて居た。それから又應用の範圍は可なり弘く、たとへば女の癪などを押へるにも、此手を用ゐると忽ち治するとい…