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![]() みみたぶのあな |
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作品ID | 58777 |
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著者 | 柳田 国男 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本柳田國男集 第十五巻」 筑摩書房 1963(昭和38)年6月25日 |
初出 | 「ひだびと 六卷八號」1938(昭和13)年8月 |
入力者 | フクポー |
校正者 | 津村田悟 |
公開 / 更新 | 2024-10-15 / 2024-10-14 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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瀬川清子さんの見島聞書を讀んで、人はどうだか私だけは非常に面白がつて居る一條は、「蛇を平氣でつかむ人を、フヂワラトウと謂ふ。その人の耳の後には小さい穴があいて居る」といふ記事(同書八三頁)である。十數年來心がけて居るのだが、まだ此問題は一向明らかになつて居ない。本誌を仲立ちにして一度山國の人たちにも尋ねて見たいと思ふ。
曾て秋田縣の大館に一泊した晩に、館資次君といふ人が來て色々の話をせられた。此地方は淺利與一の舊領と傳へられる處で、眞澄の日記にもそれが詳しく説かれて居るが、館君は曰く、私の家は勇婦板額の後裔だといふことですが、この血筋を引く者は皆耳たぶに穴があると語つて居ます。御覽下さい此通りにと、向ふをむいて見せられたのを見ると、穴とは謂つても拔け通つて居るわけでは無かつた。たゞ耳たぶの表面に皺の溝が多く、それがまん中に集注して、それだけ著しく窪んで居るのであつた。以前耳環をはめて穿つた穴が、もしも固定して遺傳したならば、斯ういふ風になるのでは無いかとも思つて、非常に興味を動かされたのであるが、勿論是は數多くの例を知つてから、其家系の特徴を比べて見なければ假定を下すことも六つかしい問題だと思つて還つて來た。
それからふと思ひ出したのは、自分の兄嫁の實家は下總の猿島郡、若林といふ村の舊家鈴木氏であるが、そこの若主人からも、私の家の者は皆耳に穴がある。耳に穴のあいた人はさう珍しくないものだといふ話を聽いたことがある。よく見ようと思つて居るうちに、此家の人たちは皆亡くなつてしまひ、手近に其血筋を引いて居る者と謂つては、其兄嫁の子が三人と、七八人の孫があるばかりだが、たま/\逢つても耳を談ずる折も無く、又すなほに耳を出して見せてくれさうにも思へない。最初は私は絲や針金の通るやうな穴が、ぽつんと明いて居るやうにも想像して居たが、是もやはり大館の館氏のやうに、耳たぶの表面に溝があつて、中央が窪んで居るのだつたかも知れぬ。さう思ふと何だか變つた耳たぶをして居たやうな氣がするが、是はもう極めて覺束ない。とにかくに鈴木といふ苗字の東國に多いのは、熊野の信仰と關係があるらしいので、私は特にこの家の耳の話を、聽き流しにすることが出來ぬのである。
斯ういふ特徴は假に遺傳するものだとしても、次々母を通じて他の家にも入つて行くだらうから、是たゞ一つによつて原因を推すことは無論出來ない。それには幽ながらでも、之に伴なふ家々の言ひ傳へを、數多く採集して行くの他は無いのである。見島聞書のたつた一行の記事も、此意味では私たちには中々の値打ちがある。
書物を注意して居ると又別方面の暗示があるかも知れない。東作誌といふ江戸期末の地誌に、今の岡山縣勝田郡北和氣村大字行信に、唐人といふ苗字の家が十數軒あることを記して、更に次のやうな記事がある。
豐公征韓のとき、山本與次右衞門兄弟、朝鮮人及…