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作品ID | 58806 |
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著者 | 太田 健一 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「脳細胞日記」 福武書店 1989(平成元)年6月15日 |
入力者 | ぐうぜんススム |
校正者 | 星野薫 |
公開 / 更新 | 2018-06-17 / 2018-05-31 |
長さの目安 | 約 147 ページ(500字/頁で計算) |
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一番ヶ瀬隼人が日記をつけ始めたのは半年前、大学の図書館で何気なく立ち読みしていた古い医学書の中に、二十歳を過ぎると人間の脳細胞は一日十万個ずつ死んでいき、一度死んだ脳細胞は決して再生することがないという恐るべき記述を見出した日からだった。彼はその日アパートに戻って電卓で計算した。自分は今二十一歳と二ヶ月だ。自分の脳細胞が二十歳の誕生日までは百五十億個あったと仮定すると、現在百四十九億五千七百四十万個残っていることになる。彼はその日以来、前日の記録から十万個引いた今日の自分の推定脳細胞総数を毎日欠かさず日記につけていった。日記にはただ日付けと曜日と推定脳細胞総数だけを記し、他には何も書かなかった。
毎日自分が確実に無能に近づいているという意識――それは隼人にとって屈辱に近い耐え難い恐怖に他ならなかった。
六月二十八日(水)
推定脳細胞総数 149億3910万個
常軌を逸した、けたたましい音で隼人はベッドから飛び起き、悪夢の緊迫がなお執拗に持続しているのをいぶかりながら頭が割れそうなのをこらえ、部屋中到る所に隠された十個の目覚し時計を一つずつ見出してはベルを消していった。机の下に二個、テレビの後ろに三個、箪笥の上に一個、洗面所に二個、電話の横に一個、ベッドの下に一個。最後に残ったベッドの下の一個がどういうわけかボタンを押しても鳴り止まず、頭にきた隼人は目覚し時計を思い切り床に叩きつけた。床に叩きつけられた目覚し時計はカンと音をたてて粉々に砕け、歯車やねじやゼンマイがあたりに飛び散ったがどうにか鳴り止んだ。
こいつはひどい。狂っているとしか言いようがない。隼人は思わず舌打ちした。むろん十個の目覚し時計が九時に一斉に鳴り出すように仕掛けたのは自分自身だが、隼人はまるで他人を恨むように昨晩の自分を恨んだ。昨日[#挿絵]無線室[#挿絵]から帰ると留守番電話に陽子からのメッセージが届いていて、もし都合がよければ今日の十時にスタジオアルタ前に来るようにとのことだった。都合が悪い場合のみ連絡してほしいと陽子はメッセージの最後に残していたが、隼人の方も彼女に会いたかったので何も連絡しなかった。だが遅刻せずにスタジオアルタ前へ行くにはどうしても九時までに起きなければならない。朝に強くない自分をどんなことがあっても九時に起こすには目覚し時計が十個は必要だろう。そう考えて隼人はこの尋常でない起床を思いついたのだった。
冷蔵庫から昨夜コンビニエンスストアで買ったサンドイッチを出してオーブンに入れ、ホットサンドが出来上がるまでの間シャワーを浴びた。ホットサンドが出来上がると下の方が少し焦げついていたのでナイフでそぎ落とし、ムシャムシャ立ち食いしながらテレビをつけてみる。窓からの日ざしがテレビの画面に反射してよく見えず、空チャンネルだったことに気づくのに時間がかかった。
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