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めん
作品ID58813
著者富田 常雄
文字遣い新字新仮名
底本 「消えた受賞作 直木賞編」 メディアファクトリー
2004(平成16)年7月6日
初出「小説新潮」新潮社、1948(昭和23)年5月号
入力者kompass
校正者noriko saito
公開 / 更新2020-01-01 / 2019-12-27
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 巣鴨の拘置所から、戦犯容疑者としての嫌疑が晴れて釈放されたわしが、久しぶりに大磯の「圓月荘」の扁額をかけた萱門の戸摺石の上に立った時、最初に、耳ばかりでなく、体全体に響き渡る様に聞えたのは波の音であった。それを聞くと、わしははっと我れにかえったという言葉通りに始めて自分を取り戻した様な心持ちになった。
「御前、世の中は変わりまして御座います」
 執事の杉山が立ち止まったわしの後で、嘆くとも、怒って居るともきこえる口調でそう言ったが、わしは一向に変わったとも思わなかった。自分でも不思議なくらい、降服ときまって戦争がすみ、巣鴨に拘置されている間に七十八年の過去というものが夢の様に記憶から薄れて行ったのだ。耄碌するというのは、こういう事を言うのかも知れぬが、体は健康であったし、現に、こうして自分の邸に帰って、萱門の前に立ち、波の音を耳にすると、爽やかな生きがいを感じて、魏徴の「述懐」の一節まで若い頃の様に心に浮ぶのだ。
 中原、また鹿を逐うて、筆を投げすてて戎軒を事とす。縦横の計は就らざれども、慷慨の志は猶お存せり。策を仗いて天子に謁し、馬を駆って関門を出ず。
 そんな五言古詩の浮んだというのも、わしの老衰していないことを物語るものだと思う。
「杉山、東京の者は誰か居るか」
 と、わしが訊くと、杉山は、一寸、口籠ったが、
「いえ、唯だ今はどなた様も。九月の声をおききになると、すぐ、お引揚げでございました」
 やれやれと思い、ひと渡り庭を見渡すと、何処となく荒れて、留守の間のふしだらが思われ焦々はしたが、夏だったら、孫や曾孫どもが群れ集まって邸中を荒らし回わっていように、もう、秋もなかばで、あれ達の姿や声を聞かないだけでも助かった思いがした。
 玄関の敷台に迎えた使用人の数も嘘の様に減ってはいたが、そんな事よりも、部屋、部屋の荒れかたがひどかった。壁の落ちた処、畳の擦り切れた処、唐紙の破れなぞ、眼にあまるものがあった。大家族が勝手気ままに暮らした跡が歴然として居る。巣鴨へ迎えに来た長男も次男も、留守に邸を使って居たことなぞ、ひと言もいわなかったが、これで見ると、住宅難で勝手な人間がここを塒にして居たに違いない。貴人茶室を真似た書院造りの、居間だけには、どうやら、人の住んだ跡は見えなかったが、床の壁が落ち、横長窓の小舞の女竹が折れて居たりして、わしは不快になり、明日から、早速、職人を入れて修理する様に杉山に命じた。
 三日程して、次男と孫の大学生が圓月荘に来た時に、わしは重々叱って置いたが、孫は白い歯を出して薄笑いし、
「お祖父様、昔を今になすよしもがな、引揚者の合宿所にならなかっただけでも倖せです」
 と、言った。
「ともかく、贅沢は許されません。決して、お父様に御不自由はお掛けしませんが、無収入状態が永く続きましたし、このインフレでは私達、旧勢力の持っていたもの…

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