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人さまざまの苦労の話
ひとさまざまのくろうのはなし |
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作品ID | 58828 |
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著者 | 佐藤 春夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 佐藤春夫全集 第24巻」 臨川書店 2000(平成12)年2月10日 |
初出 | 「心 第七巻第一〇号」1954年(昭和29)年10月1日 |
入力者 | えんどう豆 |
校正者 | 津村田悟 |
公開 / 更新 | 2019-04-09 / 2019-03-29 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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老醜と云ふ言葉があるが、自分のむかしから最もきらいな言葉の一つである。ひどく幼稚な観念的な言葉で、老人を無条件でヘコマセてくれようといふ風な底意地の悪い政治的なずるさがあつて甚だ無邪気でないところへ、何よりも馬鹿な言葉なのがいやなのである。老がもし醜ならば、少も壮も、人間はすべて醜であらう。青春や壮年だけが美のやうに思ふのは通俗で幼稚極る観念である。少、壮に美があるなら老にも美もあらう。老の美は少、壮の美と少し種類の違ふものであらう。例へば白髪頭、あれだつてなかなか美しい。それを少、壮、の美の尺度ではかるから醜になるだけの事、人生は老だけが醜などとは自分には考へられない。生に対して死をも格別醜とは思はないためか老が死の方へよろめいて行く醜のやうには見えない。醜は老、少にかかはらない。不健康だけがいつも醜であらう。健康な老は少しも醜でない。といふのが自分の少年のころからの考へで、いづれ老はまぬかれない運命とすれば(老は夭折よりもたしかに好ましい事なのだから)誰しも老を醜と思はず、老をいやがらないでむしろ親しむやうにした方がよいのだといふ風な考へ方になつてゐた。
自分にはむかしも今も敬老の思想はあまりない。しかし親老とでも云ふべきものはある。むかしから話相手には老人の方が好きであつた。
さうして自分も幸に夭折もしないで、今日、老の部類に入るやうになつたらしい。他から見れば、どうかは知らないが、自分では少、壮の時にくらべて少しも醜になつたやうな自覚はなく、自分の少年の頃から考へてゐたこととはあまり違はないで、老年には亦、老年らしい世界が美しくもたのしく展けて来たのを見て、天の人間に対して与へてゐる無限の恩恵を感謝してゐる。決して老人の負け惜しみではない。老境を特に好しとは云はないでも、少年時にも壮年の日にも変らず、老年の人生も亦好もしいと思ふのである。とかう、むつかしく説きはじめてみたものの実はほんのちよつとした実話を書いてみたいのである。――老人の茶のみ話に。
今から十数年、それとも二十年も前の事であつたらうか。戦時中の歳月は妙に歪みがあつて思ひ出すのに困難である。好ましくないので無意識に忘れてしまはうとしてゐるものらしい。それで仮りに十数年前と決めて置く。たしか芥川賞の審査会の席上か何かであつたらう。
宇野浩二君と佐佐木茂索君とそれから自分と三人で落ち合つて、とほり一ぺんのあいさつを交した後、宇野が僕の顔をしばらく眺めてゐてから、その禿げ頭の上に軽く手をやりながら、
「や、佐藤君、君も大ぶん白くなつたな。僕は以前からかうはげてゐるところへぐるりに残つてゐるのが白くなつてくるので悲観してゐた」
と宇野は言葉とは反対にたのしげに笑ふのであつた。自分も彼の言葉につり込まれたやうに、
「僕はまた、このやうに白くなつたばかりか、まんなかのあたりが禿げるともな…