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われらが四季感
われらがしきかん
作品ID58829
著者佐藤 春夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 佐藤春夫全集 第26巻」 臨川書店
2000(平成12)年9月10日
初出「朝日新聞 PR版」1963(昭和38)年12月29日
入力者えんどう豆
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2019-05-06 / 2019-04-26
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「ぼくはもう極楽行きは見合はせることにきめたよ」
 と或る時、芥川龍之介が、例のいたずらつぽい眼をかがやかしながら、わたくしに話しかけたことがあつた。
「?」これはきつと何かあとにつづくおもしろい言葉があるに違ひないと予想したから、わたくしがあとを期待してゐると、彼は言ふのであつた。
「極楽は四時、気候、温和快適だとかで、季節の変化は無いらしいね。季節の変化のない世界など、ぼくにはまつぴらなのだ」
 いかにも芥川らしい言ひ分であつた。彼は一面で俳人であり、俳句は季節の変化を主題とする文学だから、芥川が季節に変化のない世界をまつぴらだといふのは尤も千万である。
 極楽浄土には季節の変化以上にこれを償つて余りある種々な精神的悦楽もあるらしいが、それにしても、芥川が季節の変化を無上の喜びとしたらしいこの言ひ分は、俳人ならずとも、すべての日本人に同感されてよいものと思ふ。
 そもそも、われらが日本の国土は、世界の好もしい部分に位置して、季節の変化といふ点にかけては、全世界でも二つと無い豊富なところなのではあるまいか。
 わたくしは日本以外、広い世界のどこでも半年以上を住んだことはないのだから、井戸の蛙のたわごとかも知れないが、四季それぞれに、さまざまな衣類が世界のどこにくらべても多すぎるほど多いらしい事実に鑑みて、これは我々の日常生活が格別にゆたかといふでもないのに、衣類だけがこう発達したのはわが国の季節の変化がそれほど微妙なため、またはわが国人が季節の変化に敏感なためだと思へるからである。季節の変化が多いといふのも、それに対して敏感といふのも、つまりは同じことである。さうしてそのためにこそ季節の変化を主題とする俳諧のやうな文学も発達したのである。
 季節の変化に敏感なといふことは、わが国が、由来農業国で天候や四季の推移に対して生活が直結してゐたといふ事実に因るものかとも考へられる。
 その原因が何であつたにもせよ、わが国民一般がゆたかな季節感を持ち、その自然とそのなかの生活とにおのづからな詩情を持つてゐた事実は争はれまい。そこに俳諧が生れ発達したのであらう。
 春花秋葉、ともに目にたのしく、この季節は肌に快い。奈良の春、嵯峨の秋、我々日本人たる者、誰かこれを快適と称しない者があらうか。蒸し暑い日本の夏は少々ならず閉口であるが、それも大都会のビルやアスファルト道路の照り返しに自動車の排気ガスを脱れ出でて、青田に白鷺を見、蝉しぐれの緑陰に清泉を掬する日本の自然のなかに置かれた町や村の夏なら、緑陰に清泉の一掬に十分にしのぐこともできる。
 白地の単衣を黒いのに着かへて夕風をしのぎ、いよいよ初袷になるころの夏から秋への推移ほど快いものはあるまい。台風といふ難物こそあれ、昨日までの入道雲と湿度とは跡なく消えて空は飽くまでも深く澄明である。これは台風が荒れ狂つた償いででもあら…

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