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![]() はんしんけんぶんろく |
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作品ID | 58841 |
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著者 | 谷崎 潤一郎 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「「文藝春秋」八十年傑作選」 文藝春秋 2003(平成15)年3月10日 |
初出 | 「文藝春秋」文藝春秋社、1925(大正14)年10月号 |
入力者 | sogo |
校正者 | 友理 |
公開 / 更新 | 2021-09-06 / 2021-08-28 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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○
大阪の人は電車の中で、平氣で子供に小便をさせる人種である、――と、かう云つたらば東京人は驚くだらうが、此れは嘘でも何でもない。事實私はさう云ふ光景を二度も見てゐる。尤も市内電車ではなく、二度とも阪急電車であつたが、此の阪急が大阪附近の電車の中で一番客種がいいと云ふに至つては、更に吃驚せざるを得ない。
一度は何でも、寶塚で菊五郎の道成寺を見た歸り途の、滿員の電車の中だった[#「だった」はママ]。車臺の中央の吊り革にぶら下つてゐると、何處かでシヤアシヤアと放尿する音が聞える。そのうちに足もとへ水が流れて來る。變だなと思ふと、眞つ黒な人ごみの、ぎつしり詰つた二三人の頭越しに、一人の女親が三つ四つの幼兒を抱いて蹲踞まつてゐるのが眼に留まつた。此の女親の不作法は素より論外であるとして、私の不思議に思つたのは、此れを見てゐる車掌もお客も、別に咎め立てをしないばかりか、不愉快な顏つきをするのでもない。何しろ立錐の餘地もない中で、蹲踞まつてゐるのさへが不都合であるのに、近所の人はシヤアシヤアの飛ばツ散りぐらゐ受けるだらうが、誰も平氣で、全く無感覺な樣子をしてゐる。寶塚のお客が斯う云ふ人種の集まりだとすると、菊五郎がイヤ氣を起しても尤も至極と云ふべきである。
二度目の時も矢張り滿員の電車だつたと覺えてゐるが、それも女親が幼い子供に、小便でなく糞をさせてゐた。念入りにも車臺の床へ新聞紙を敷き、その上へさせてしまつてから、今度は新聞紙を手で摘まみ上げ、お客の鼻先へ高々と翳して、雜沓の間を辛うじて分けながら、窓の外へ捨てるのである。甚だ尾籠なお話で、東京人には恐縮であるが、此方の人はこんな事を何とも思つてゐないらしい。
○
大阪から汽車で京都へ行つた時、二等室に若い夫婦が乘つてゐた。そして生後一年ぐらゐの乳呑み兒を頭の上の網棚へ乘つけて、下から笑ひながら見上げてゐた。「鹽梅やう乘つとる」とか何とか云ひながら。――此れなんぞは無邪氣でいいが、前の尾籠な事件と共に、東京の電車や汽車の中では見られない圖である。東京人の常識では、かう云ふ人の心持ちは判斷が出來ない。ちよつと外國の風俗習慣を見るやうな氣がする。
○
大阪の人――それも相當教養のあるらしい、サラリー・メン階級の人々――は、電車の中で見知らぬ人の新聞を借りて讀むことを、少しも不作法とは考へてゐないやうである。それも長い汽車の道中とか、つい隣席にゐる人の物なら分つた話だが、大阪人のはその借り方がいかにも不躾で、づうづうしい。たとへば私が大朝と大毎の夕刊を買つて乘り込むとすると、孰方か一つ、私の手に取らない方の新聞を、ちやんと眼をつけて直ぐ借りに來る。而も遠くから、人ごみを分けてやつて來て、煙草の火でも借りるやうな風で、「ちよいと拜借」と、譯なく借りて持つて行つてしまふ。さうして雜沓の中であるから、も…