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永井荷風といふ男
ながいかふうというおとこ
作品ID58856
著者生田 葵山
文字遣い旧字旧仮名
底本 「「文藝春秋」八十年傑作選」 文藝春秋
2003(平成15)年3月10日
初出「文藝春秋」文藝春秋社、1935(昭和10)年10月号
入力者sogo
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2018-12-03 / 2018-11-27
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 私が永井荷風君を知つたのは卅七八年も以前のこと、私が廿二歳、永井君は十九歳の美青年であつた。永井君の家は麹町の一番町で以前は文部省の書記官だつた[#「書記官だつた」は底本では「書記官だった」]父君は當時、郵船會社の横濱支店長をして居て宏壯なものだつた。永井君は中二階のやうになつた離れの八疊を書齋に當てゝ、座る机もあつたが、卓机もあつて籐椅子が二脚、縁側の欄干に沿うて置かれてあつた。その籐椅子を私はどんなに懷かしがつたものか。訪問れて往くと先づ籐椅子に腰を降して、對向つた永井と語るのは、世間へ出ようとお互に焦慮つて居る文學青年の文學談であつた。
 その頃荷風君は能く尺八を吹いた。時折それを聞かして貰つた。荷風君の幼年時からの友人である井上唖々君が高等學校の帽子を冠つて同じやうに絶えず訪問れて來た。それから早死した清國公使館の參讃官の息子の羅蘇山人も時々やつて來た。私等は話に倦むと連立つて招魂社の境内を散歩した。私がトオスト麺麭の味を知つたのは荷風君のその中二階で、私が行く頃やつと眼覺めた荷風君へ、女中が運んで來る朝飯のトオストを、私が横合から手を出して無作法にムシヤ/\やるのも常例であつた。
 談文學になると仲々雄辯になる永井君であつたが、現在の永井君のやうに私生活に就ては何にも私達に洩らさなかつた。井上唖々君が代辯していろ/\と私達に話した。附屬の中學に往つて居たが、體操を嫌ひその時間を拔けるので、教師に怒られ、同級生の腕節の強いのから酷められたりして、その爲に上の學校へ上るのを放棄したと云ふやうなことであつた。成程體操嫌ひらしい永井君は腺病質で、色の青白い、長身の弱々しい體格であつた。唖々君が猶も洩らしたのは此の上の學校へ上らぬのと、文學を志して居るのが、父君の氣に入らず、母君の心配の種になつて居ると云つて居た。
 貧乏人の私などは遊廓の味をまだ知らなかつたが、永井君は既に知つて居るやうだつた。永井君自身も私に自分は早熟だとは語つて居た。麹町の英國公使館裏に快樂亭と云ふ瀟洒な西洋料理店があつて、其處にお富と云ふ美しい可憐な娘があつた。當時四谷見附け外にあつた學習院の若い公達が非常に快樂亭を贔負にして、晝も夜も食事に來て居た。料理も相應なものであつたが、それよりもお富ちやんのサアビイスを悦んだのである。永井君も此快樂亭へは能く出懸けて往つた。此のお富ちやんは私の知人の畫家の妻となり、今も健在だが、永井君へ烈しい思慕の情を寄せるやうになつた。今一人永井君へ想ひを寄せる女があつた。招魂社横の通りに江戸前の散髮屋があつて、兄息子の散髮師が上海歸りで外人の刈り方の通を云ふところから仲々繁昌し、私達仲間も行きつけであつたが、其處の看板娘が荷風君を戀ひ慕つたのである。近所が富士見町の藝者屋町なので、その娘にしても華美な花柳界の態に染まり、いつも髮を島田髷に結ひ、…

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