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春いくたび
はるいくたび
作品ID58869
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「春いくたび」 角川文庫、角川書店
2008(平成20)年12月25日
初出「少女の友」実業之日本社、1940(昭和15)年4月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-12-15 / 2022-11-26
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 霧のふかい早春のある朝、旅支度をした一人の少年が、高原の道をいそぎ足で里の方へと下って来た。……年は十八より多くはあるまい、意志の強そうな唇許と、睫のながい、瞠いたような眼を持っている、体はがっちりとしては見えるが、まだどこやら骨細なので腰に差した大小や、背に括りつけた旅嚢が重たげである。
 道は桑畑のあいだを緩い勾配で下って行く、桑の木はまだ裸であるが、もう間もなく芽をふくのだろう、水気を含んだ枝々の尖は柔らかくふくらんで、青みのさした樹皮には、霧の微粒子が美しく珠を綴っていた。
 少年はときどき立止りながら道を急いだ。
 もうすっかり明けはなれているのだが、あたりは灰白色の霧に包まれてなにも見えない。……山の上から吹き下りて来る霧は、少年の体を取巻いて縦横に渦を巻き、押返したり揺れあがったりしながら下の方へと去って行く。……それはまるで音のない激流のなかにいるような感じだった。道が二つに岐れるところへ来た。少年は其処で足を止めた。……そしてなにかを聞き取ろうとでもするように耳を澄ませた。……元服して間もないと思われる額に、濡れた髪毛が二筋三筋ふりかかっている。かたくひき結んだ唇が微かに震えた。
 人の走って来る跫音が聞えた。
 少年の大きな眼がふっと光を帯びた。……なにか叫ぶ声がして、それから霧のなかに人影が見えだした。少年は二、三歩たち戻った。……朧な人影は霧に隔てられて見えつ隠れつしたが、やがて、驚くほど間近へ来てから不意にその姿をはっきりと現した。
 髪を背に垂れた、十五歳ほどになる武家風の少女であった。手に辛夷の花を持っているが、ふっくらとした頬はその葩よりも白く、走って来たために激しく喘いでいる唇にも血気がなかった。……二人はかたく眼を見交したまま、やや暫く黙って向き合っていたが、やがて少年がひどくぎこちない調子で、
「送って呉れて、有難う、香苗さん」
 と云った。
 すると少女も思い詰めた声で追いかけるように云った。
「どうしても、行ってしまうの、信之助さま。どうしても、もう……帰っては来ないのね」
「帰って来るとも、命さえあったら」
「きっと帰っていらっしゃる」
「帰る、きっと帰って来る、此処は清水家の故郷だもの、何百年の昔から御先祖が骨を埋めて来た土地だもの、望みを果したらきっと帰るよ」
「待っていてよ、香苗は待っていてよ、……ですから」
 少女は思うことが口に出ないので、もどかしそうに肩を縮めながら云った、「ですから若しも、御出世をなさらなくとも、若しも戦で怪我をなすったり、それからもっと色々の、帰り悪いような事が出来ても、きっと、きっと帰っていらっしてね」
「斯うして、……約束します」
 少年は片手で刀の柄を叩いた。少女は微笑もうとしたが、それは泣くよりもみじめな表情であった。……別れる時が来たのである、香苗は辛夷の花を一輪折…

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