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武道宵節句
ぶどうよいぜっく
作品ID58871
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「春いくたび」 角川文庫、角川書店
2008(平成20)年12月25日
初出「新少年」博文館、1938(昭和13)年3月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-12-19 / 2022-11-26
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 ――飢えて窮死するとも、金一両はかならず肌に着けおくべし。武士の嗜なり。
 父は生前よくそういっていた。三樹八郎はいま、金一両と四、五枚の銭を手にして、父の言葉を思出しながら我知らず太息をついた。
 ――渇しても盗泉の水は汲まず、貧にして餓死するはむしろ武士の本懐なり。
 これも父の言葉である、だからこの家では、どんな困ったことがあっても、太息をつくなどということはかつてなかった。――厨でことこと俎の音をさせていた妹の加代は、珍しい兄の太息を聞いて、
「お兄さま、どうか遊ばしまして?」
 と声をかけた。
「うん? いやなんでもない、腹が空いたので御馳走を待兼ねているところだ」
「まあいや、……この膾ができるとすぐですわ、もうしばらく我慢をあそばせ」
「ではお雛様へ燈でもあげるか」
 三樹八郎は金を納って立上った。ひどい貧乏の中にたった一組だけ残った内裏雛と、橘、桜、雪洞が二つという、淋しい雛壇に燈を入れる、――昔を思うと夢のようだ。七百石御槍奉行まで勤めた家柄とて、十五畳の間を半ば占めた豪華な雛壇、近親知友を集めて宵節句を祝った当時に比べると、本当に夢のような変りようである。
 兄妹の父村松将太夫が、老職と意見の衝突をして小笠原志摩守を退身してから十五年、二君に見えずと云って清貧のうちに父は死し、母も五年以前に父を追って逝った――それから今日まで、三樹八郎は兄妹の運命を開拓するために、寝食を忘れて活躍してきたが、梶派一刀流免許皆伝の腕前も、仕官の途がなくては役に立たず、
 ――まあ、どうにかなるだろう。
 いくら急いでも相手のない相撲は取れぬと、父とは反対にしごくのんびりとかまえていたが、ついにどうにもならず今宵に及んだ。――言葉どおり、実際もうどうにもならぬのだ、今夜は雛祭りの宵節句で、少しばかりの馳走を調えたが、それは兄妹の最期の晩餐のつもりである。夜半になったら、妹を刺し、自分も屠腹して潔く世を辞そうと覚悟していた。
「はい、お待遠さまでした」
 加代が支度のできた食膳を運んできた。
 今日は二人とも久方ぶりで風呂を浴び、加代は貧しいながら髪化粧をしている。乙女十九、幸い薄く育ったが備わった品位と美しさは、兄の眼にも惚れ惚れするくらいだった。
「今宵の主はおまえ、……さあ酌をしてあげよう」
 三樹八郎は白酒の瓶子を取った。
「いやですわそんな、どうぞお兄さまからお先に」
「三樹の祝いは端午、今夜はおまえのお相伴だ、遠慮をすることはない、さあ」
「では――」
 加代は羞いながら土器を手にした。
 端午といったが、明けるを待たで死ぬ二人である。貧乏のなかにも、兄に頼りきっている加代が、何も知らずに、軽く噎せながら白酒を啜る姿……可哀そうに、思わず胸へ熱いものがつきあげてきた。
「まあ、お兄さま!」
 加代は、兄の悲しげな顔つきを認めて、どうしたのか…

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