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函館八景
はこだてはっけい
作品ID58920
著者亀井 勝一郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本随筆紀行第二巻 札幌|小樽|函館 北の街はリラの香り」 作品社
1986(昭和61)年4月25日
入力者大久保ゆう
校正者noriko saito
公開 / 更新2019-02-06 / 2019-01-29
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 連絡船に乗つて函館へ近づくと、恵山につらなる丘の上に、白堊の塔のある赤い煉瓦造りの建物が霞んでみえる。トラピスト女子修道院である。やがて函館山をめぐつて湾へ入りかけると、松前の山々につらなる丘の上に、やはり赤煉瓦造の建物と牧場がみえる。これは当別のトラピスト男子修道院である。函館の町を中心にこの二つの修道院をつなぐ半径内が、幼少年時代の私の散歩区域であつた。思ひ出すまゝに、私は最も美しいと思はれた八つの風景を選んでみよう。題して「函館八景」といふ。これは行きずりの旅人にはわからない、函館に住んでみて、はじめて成程と肯れる風景のみである。
 一、寒川の渡。――函館山の西端、即ち湾の入口にのぞんだところに、寒川といふ小部落がある。こゝは町の西端ではあるが、全く町から孤立して、置き忘れられてゐるやうな淋しい部落である。そこへ行くには穴間といふところを通らねばならぬが、この穴間は高さ五十米ほどの海洞窟なのである。奥行はどれほどあるかわからない。海水は深く紺碧に澄んで、魚類の泳いでゐるのが上からはつきり眺められる。洞窟の中にはかうもりなども住んでゐる。ちよつともの凄い感じのするところだ。波の荒い日など、押し寄せる怒濤の渦巻が洞窟深く流れこみ、また白い牙をむいたやうな泡をたてて吐き出されてくる。洞窟は呻くやうなすさまじい音を発するのだ。
 この洞窟に針がねだけでつくつた釣橋が懸つてゐる。釣橋と云つても橋の体裁はむろんない。上下に併行した二本の太い針がねがわたされてゐるだけで、上の一本につかまって[#「つかまって」はママ]、下の一本を渡るのである。脚下には渦巻く海水があり、頭上には断崖、眼前には深い洞窟が口をひらいてゐる。この渡を渡つて寒川といふ部落へ行くのである。函館の町の中に、こんな未開のところが一ヶ所残つてゐるのだからめづらしい。真夏など裸体の男達が、この釣橋を渡つてゐるのをみると、ふと南方のジャングルの土人の中に生活してゐるやうな錯覚を起す。私はこの原始の風景を愛した。
 二、旧桟橋の落日。――これは連絡船の発着する大桟橋とは別に、湾内の奥深く、町の中心に直接達しうる小さな桟橋の名称である。私の家から坂を下つて十分も行くと旧桟橋に着く。私は少年時代、夕暮の散歩には必ずこゝを選んだ。その頃は外国貿易も盛んだつたので、各国の船がいつも二三隻は碇泊してゐた。私はこの桟橋の手すりにもたれたまゝ、それら船体の美しい色彩や、国旗や信号旗の色さまざまにひらめくのを、倦かず眺めたものである。少年の異国への夢をはげしく唆つたのも、この桟橋の風景であつた。
 小さなランチやボートや伝馬船が、絶えず発着して、北海道の奥の港からくる旅人達が乗降する。或は外国人達が賑かにやつてくることもある。ロシア革命以前に存在してゐたロシアの義勇艦隊と、カムチャツカ方面から帰来するロシア船の入つてくる…

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